幼少期の大事な時期をアメリカで過ごした私にとって、アメリカニュージャージーは特別な存在だ。夫と結婚し、今、息子を育てていて、自分が夫婦の関係、親子関係、家族関係、そして教育、に対する考え方の基盤が、アメリカでできたのだと思わせられる。帰国子女にしては、情けないほどに英語ができないけれど、文化や教育は染みついてしまった。家族間のコミュニケートの取り方、喧嘩した後の親の振る舞い方、家族間や他人に対してのユーモアと、相手を尊重する気持ちとのバランス、マナー、他人との距離感など、自分が思っている以上に、自然に身に付き、そういった面ではアメリカのやり方に共感もしている。素直な表現も好きだ。自分の言葉で、考えや気持ちを口にすること。素朴な疑問も口に出す。そういった表現がとても豊かで上手だし、家族関係を支えるのに役立っている。
 でも。私は日本人である。日本人の両親に育てられた。根っこは日本文化もちゃんと体の中に息づいているし、私は日本人が好きだ。日本人は真面目で、遠慮がちで、大げさな表現をしない。感情をコントロールする能力が高いと私は思う。もちろん心の中で色々な気持ちが渦巻いているのは皆もそうだ。こらえて我慢していることが良いとは思わない。でも、そういう日本人が喜び、悲しみや苦しみを表に出した時、とても胸を打つ。ただ、時にそういった感情も、表現する機会は必要ではある。いざという時に、しっかりと出す。日本人は、アピール力がないと言う。それでは世界で通用しないが、アピールしながらも感情をコントロールしようという二つが重なると、とても重みが出る。これが優れた人だけではなく、そこらにいる人たちの中にも見られる。最近では、宇宙飛行士の若田光一さんが、その辺のバランスが絶妙なのかなと思う。自己主張し、人をまとめ、さらに自分の感情をコントロールできているようで、常人には真似できないけれど、私は素晴らしいと思い、日本人として誇りに思う。
 アメリカで、何も悪いことなどしていない、何の罪もない人々が犠牲になったと、声高に言い始めた時、私は、アメリカの軍隊に攻撃されて、或いはそこの国に駐在している米軍の人たちのために、犠牲になった民間人が山のようにいる、と心の中で反発した。
 テロは許せない。許してはならない。脅威である。私たちから日常を奪う。
 でも、それに対して「報復する」と言うのなら、テロを起こした人たちと同じ次元であろうと思う。何故こういったテロが起きたのか、歴史をひも解いていくと、キリがなくなって気が遠くなっていく。
 アメリカに住んでいると、日本で感じるような窮屈さがなくなり、地に足がついたように感じる。私は私でしかないという当たり前のことをありがたく思う。でも、アジア人であるという差別も感じる。白人は強い、そして正しいのだという意見、或いはそういう態度に出くわすと、本当に嫌な思いをする。
 テロに対しての報復を行うことになり、それに逆らえないムードが、アメリカ全体に広がった時、私は、ああアメリカの嫌な部分が前面に出たなあと思った。私がかつて何度も感じたことのある気持ちが、一層強くなった。幻滅した。
 それから私は「アメリカが好き」と単純な気持ちで言えなくなった。