8歳になってもグズりまくる我が子が、お手本とまで言ってもらえること、私が向き合っていると言ってくれたこと。私は甘やかしたり、愛情を注ぎ過ぎていたりなんかじゃないんです。愛情に注ぎ「過ぎ」なんてない。たっぷりの愛情は、出し惜しみをすることなんか決してない。そうでなくても、子供にとって、一つ一つのことが初めての世界。親や先生に怒られて、友達同士いざこざがあって、社会を学び、日々、子供は子供で過酷です。知らず知らず親だって傷つけているし、ひどい叱り方をしてしまうことだってある。
 傷つけてしまった時には謝れば良い。例え叱った内容が正しくても、傷つけたことに関しては謝る、というのが私の考えだ。
 子供も自分の主張が正しくても、私を傷つけたら謝ってもらう。言い方とか、そんなつもりはなくても人を傷つけるとか、色々なケースがある。子供にはとにかく、自分の気持ちを表現してもらうことを心がけている。帰国子女として、というのか、幼い頃、そういう交流をしたいと、アメリカの文化に触れながら思い続けてきた私としては、そこは譲れないところなのだ。自分の気持ちを言葉で表現してもらうこと。それができない時には泣いても笑っても、別の方法でも自分の気持ちを発散してもらえたら良い。それが、周りの同じ学年の子たちと同じような段階を踏めなくても、その子なりのペースで発達していたら良い。
 しかし、そういう信念がありながら、度々揺れる。どうしても周りの子は目に入ってくる。これで良いのか、ウチの子だけどうして。この気持ちはずっと持ち続けていたが、特に三年生になってから、多くの子が「三年生」ということにこだわり、口にするのが気になってしまった。
 そんな中、何故ウチの子だけグズるのか、何故ウチの子だけクラスの中で一人、親に甘えに来るのか、こんなので良いのか、私の気持ちは穏やかではなかった。そして、家での荒れっぷり。宿題したくないと暴れ、時間がもうないと泣く。自分の思うように周りが動かないと怒る。やっと落ち着いてきたと思ったら、いじけたことを言う。こんなものなのだろうか。私の当時とは全然違う。どうしたら良いんだろう。不安でいっぱいの中、スクールカウンセラーが言ってくれた「素晴らしい」が、本当に嬉しかった。それが例えカウンセラーとしての手法だとしても、私は嬉しい。心理学やらカウンセラーのやり方とか勉強してどんな言葉をかけるのが良いのかいくらわかっていても、やっぱり人の心は「嬉しい」と思ってしまうんですね。人の気持ちとか心って、簡単にコントロールできるものではない。まず反応してしまうもの。そこからどう動かしていくかはできるものの、最初に示す反応をしっかり受け止めましょう。喜びも悲しみも、怒りも悔しい気持ちも落胆も、嬉しい気持ちも楽しい気持ちも。
 そんなわけで、夏休み明けて間もなく、やっとやっと、三年生になったことを息子が受け入れ、同時に、三年生になった息子を私が受け入れられた、という感じでしょうか。
 成長するのは子供だけではないですね。つくづく感じた充実の、息子三年生。