母に、私の「何で?」で参ったわと言っていたことがあったよねと確認した。
 覚えてる覚えてると笑っている。
 「でも、今でもそういうところがあるんだよ。ダンナに言ってたら、そんなの知らないよって怒られちゃった。」と言うと、ますます笑っている。そして「佳澄はそういうところが、何故だか不思議といつまでも子供っぽいわよね。」と言う。
 ……!えっ、そうなんだ!子供っぽいのか!
 だからどうだとか、こうしなさいとかではなく、自分も責められたような感じはなく、私は自分に偏って子供っぽいところがあるということが、自分に対する発見だった。
 ちょっと我慢した方が良いと思う?と聞いたら、そうね、少しこらえたら?と笑っている。母の「母親らしい」面を少し感じることができて、嬉しかった。私は、遊ぶとかフザけるとか人に頼るとかいう面では、思う存分子供らしい時期を過ごしたと自分で思っている。が、母に何かを相談するとか、そういう感情的な部分で、あまり子供らしい子供でいなかったのかもしれないとふと思う。それもまた、抑えていたところ、無理していた所もあったのだが、でも無理しているとか我慢しているとかに関して無自覚でもあったのだ。
 でも、「何で?」に関しては、ちょっとこらえるなんて、今更40にもなる私が、調節できるだろうかと思った時に、いやいや、できるんだと思い直した。きっと、気質と言うか、自分の本性は「何で?」と聞きたくて仕方ないので、そのうち年取って自分を抑えられなくなったら、聞きまくるかもしれない(笑)。でも、高齢の人で、本性むき出しみたいな人を見た時(笑)、ああこの人はこういう部分を抑えて生きてきたんだなって思いませんか?私は、きっとそういう部分が出るんだろうなと思う。で、きっと、それまでは子供のためにちょっとこらえることも必要なんじゃないかと。親であることを演じているのなら、それも演じましょうよと思うわけです。そう割り切れば良いと気がついた。そして、年取って、そういう面が抑えられない時は、まあ年取ったってことで、周りにアラアラと思われても仕方ないでしょうと開き直りました。
 これは、随分意義のある会話でした。母はそうは思っていないだろう。ほぼずっと笑っていたので(笑)。話を始めた時も、私がそんなに真剣に聞きたいとは、思っていなかったようで、すぐ違う方に話がそれていくのだが、私が何度も話を戻して、最終的に「ねぇねぇ、これってこらえた方が良いんだろうかね」と相談したら、あっそんなの聞きたかったの?って感じだった。母は、私のそういう部分を「佳澄らしい」と流していたんでしょう。でも、ちょっとうっとうしかったかもしれません(笑)。それは、親になって、自分の子供に対して「ここは自分と違ってうっとうしいなあ!」っていう思いをしないと、わからない感覚だと思います。でもだからと言って、自分の子供が嫌になるのとは別ですね。そうか、この子にはこういう部分があるのか。面倒くさいなー。でも仕方がないんだよなー。って感じですね。相変わらず、可愛いんです。それは、子供の立場しか体験したことないと、わからないことかもしれない。自分のこういうところが悪いから直さなくちゃと躍起になっているだけかもしれない。自己否定とか。でもそういうことじゃないんですね。