犯罪をおかした人の親が「自分に責任はない」と言い切ったことに対し、私は違和感を覚えた。先にも書いたように、確かに本人が大人になったからには、その当人は責任を負わなければいけない。
 これもよく書いていることだが、「こう育てると、こうなる」といった単純な図式は、一人一人に成立しない。
 私が追ったその裁判でも、その犯人に兄弟はいた。犯罪者だって、兄弟姉妹はいる場合もある。兄弟姉妹が、同じ親に育てられたからと言って、同じような犯罪をおかすわけではない。そんなの、皆、百も承知だ。では、その当人がすべて悪いのだろうか。弱いからだろうか。親に責任はないのだろうか。私は、色々勉強して、ではなく、自分が親として、やっぱり子供が何か社会的に悪いことをすれば、その子供が幾つであろうと、親は十字架を背負っていかなければいけないと思う。辛いけどそれが親の役目なのだろう。
 この犯人の親がそう言い放ったことで「そんなだから、キミの子は犯罪者にまでなったんだよ!」と内心、毒づいた。いや別に「そんなだから」ってわけではないんだけどね、でも、ついそう思わずにいられないコメントだ。そりゃ「こんな親に育てられている人は、そんなに珍しくないこと。それでもこんな犯罪をしないでいられる人だって多い。」のは確かだ。ここに何度も書いていること。
 同じように育てたからって、同じように育つとは限らないんです!周知の事実です!
 でも、そう思っているような親たちに言いたい。そこに、その子の気質は考慮されていますか?
 『子どものための 自分の気持ちが<言える>技術』(平木典子著)という本にも書いてあった。種のない所に一生懸命水をやっても、何も生えてこない。種があるから、芽が出るのだと。私たち親は、そこをとても見落としがちである。「自分」の期待するものがあれば、その子に、種があろうとなかろうと、必死になって水をやる。これができるようになってほしい、こういう子になってほしい、こういう大人になってほしいと。でも、その子に種がなかったらどうしますか?その子をけなして「ダメだ」「できない子だ」「期待外れだ」と否定するんですか?私はそういう親を多く見てきました。本当に、その子供が可哀相だと心から同情する。その子に種があったとしても、自分の意欲ではなく、親の期待に必死になって応えようとしているその表情は、正直痛々しくて見ていられない。期待は親ならつい持ってしまうものだ。でも、「あなたが存在しているだけで幸せ」だと言ってもらえる子供の何と少ないことか。勉強のことに関してだけではない、スポーツの場でもよくそういった光景は見られる。親の期待に応えられない子は「ダメな子」とけなされている場面をいやというほど目にする。頑張っているその子の表情を見ながら、横で親が「もっと頑張れよ」「何やってるんだ」と必死になっている。誰が頑張っているのだ?オマエはこの子をどうしたいんだ?と腹立たしささえ覚える。多分その子は、親の期待に応えられないからと自己否定を始めるだろう。いや、もう始めているのだろう。