人の心についてのめりこんでから、犯罪をしてしまった人の成育歴、環境についても興味を持つようになっている。不可解な事件だと、その人がどのようにして育ったのかを追ってみたいと思い、裁判などが公表されたら、それをネットで追っていく。どうしても必要な時は、プリントアウトして自分なりに分析することがある。
 以前、ある犯罪の裁判の結末を読んだ時に、後味の悪い思いをした。今回は、それについて書きたい。
 犯人は、年齢的にも、もう大人になっていたし、働いていた。子供の頃の成育歴を読むと、犯人の凶行とは別に、同情の念が拭えなかった。もちろん、今の立場においてではなく、犯人の、子供の頃の家庭環境に同情したということで誤解のないよう。どんな悲惨な環境で育ったからと言って、犯行に及んで良いわけがなく、それが、一人に対してだろうが、大勢に対してだろうが、それによって、多くの人の身も心も傷つく。その責任は重い。個人的な心情としても、許せない気持ちになる。恐怖も憎しみも生まれる。でも、そういう事件にしろ、事件ではなくても身近な例にしろ、人の弱い部分て、単にその人の強さとか弱さとかだけだと思いますか?私は、そうは思わない。色々読んで勉強してきたからというだけでなく、自分の経験的にもそうは思わない。
 ここでは、何度も書いてきているので、何度か読んで下さっている方は食傷気味だと思うが、まだまだ声を大にして言いたい。
 人の心の動きや行動への表れは、そんな単純なものではない。その人の強さや弱さだけではない。気質に加えて、幼い頃からの成育歴、親や周りの大人との関係性、生活環境、学校での友達や先生との関係、それも小学校、中学校、高校、その後は、大学や専門学校、或いは社会人、その時その時でのたくさんの周りの人との関わりあい、それによって形作られていく性格、きっかけ、によるものがある。強さ弱さというのは、気質的なものだと思う。つまり、この中で言えば、一部である。大事な部分ではあるが、一部である。何が大事かと言うなら、全部大事だからだ。
 追っていた裁判の一つに、そういった悲しい成育歴の人がいた。それを読んで、では何故こういう犯行に及ばなければいけなかったのか、私には理解できないのだが、だからと言って、親に責任がないかと言えば、そうではないと私は強く信じている。その人がどんなに大人になっても、親の影響というものははかりしれない。
 カウンセリングの場で、70歳や80歳になって、例えその親がもうこの世にいなくても、彼ら彼女らは、幼い頃にされた仕打ちを思い出し、涙を流して「辛かった」と訴えると言う。それを執念深いなどと言うのは浅はかである、と、数々の本を読み、自分の体験、周りの人々の話もあわせて、そう思う。
 「大人になったから」というのは、自分で責任を負うということではある。そういう意味で、犯罪者は裁かれるべきである。ただ、その人自身の今、気持ちの動き、をつくり上げるのに、親はしっかり加担しているということは忘れてはならない。
 その裁判の結末で、親はこんなことを言った。
 「同じような親であっても、こんな風には育たない子もいる。なので、親である自分に責任があるとは思えない。」というような内容だった。
 そう、大人になった以上、本人に責任がある。しかし、親自身が「自分に責任はない」と言いきれるだろうか?