知り合いたちの、命に関わる物に興味がある子供たちを見ていると、命を肌で感じ、生き物を手で触り、心を揺さぶられているのがよくわかる。命に触れるドキドキ感みたいなものが伝わってくる。そうだよね、嬉しいよね、面白いよね、命ってワクワクするよね、と思う。子供たちの、その気持ちがまたさらに嬉しくなる。が。
 この母親の子でありながら、息子は反応が今一つだなと前から思っていた。
 小学三年生になって、学校の教科に理科が加わった。最初に習ったのは、昆虫のことである。私は過去、ワクワクして勉強したのを覚えている。メダカを飼った時も、顕微鏡で見るなどして、メダカに関するテスト問題は、得意だった。それは、暗記したことではなく、自分の体験からわかることばかりだった。ヒレはどうなっているか、オスとメスの違い、卵の状態、メダカに適した環境は、など。虫もそうだった。自分で色々虫をつかまえてつかんで、マジマジ眺めて、いざ勉強する時も、記憶をたどって、ああそうだったこうだったなと感じながら、簡単に頭に入っていった。まあマジマジ眺めたせいで、気持ち悪く感じ始め、眺めた虫が一つ一つ嫌いになっていってしまったけどね(笑)。
 息子は、その初めての理科で、割と良い点数を取り続けているので、やはり興味は少しはあるのかなと聞いてみたら「ウーン、僕、生き物とか昆虫とか、そういうものにはあまり興味がないみたい。」と言った。ああ、わかってはいたけど、息子自身も自覚していたのかあ。改めて言われると、ガッカリしてしまった。息子は、ただ知識として頭に入れて、テストにのぞんでいたわけだ。それはそれで感心ではある。それなのに結構良い点数採っているね、と誉めなくちゃね。
 だけど!やっぱりちょっとガッカリしてしまう気持ちはあるのだ。息子と感覚があまりにもズレていることに、嫌でも気付かされたからだ。
 星空を一緒に見上げている時、私と息子とでは、気持ちが全然違う。気が遠くなって、怖くなって、空を眺め続けることができなくなっても、息子は知識として知りたいので、眺め続けることができるのだ。親子なのに、所詮、違う個性の持ち主、本当に違う。
 息子は、生まれた時から、私と気質が違うなと思わせられていた。体質も違うし、外見も夫によく似ている。私に似ているところもあるが、三人で歩いていると、まあ9割が「お父さん似」だと言う。私は、子供が、お腹の中に誕生するその前から、子供ができたら父親似であってほしいと願っていた。私から生まれたのは間違いないから、夫に「僕、父親なんだな」と実感してほしかったのもある。あと、実は、自分に似るとかわいそうという気持ちも強かった。こんなにただ遊ぶことが好きで、人の話している説明、文書での説明などに関して著しく理解力がなく、注意力が散漫で、色々なエネルギーに欠け、身体も丈夫ではない。それでまあ満足かっていう人にはなってほしくないなあと思っていたのだ。
 でも、実際、自分の子供があまりにも自分に似ていないと、すごく寂しく感じるようになっていった。私だって私の良い所は知っているし、そういったところで、自分の欠点を補っている。大雑把で、単純、臨機応変なところは、繊細で面倒くさい部分と良いバランスを保ってくれている。息子はそういう大雑把さや臨機応変さがなく、私が窮屈に感じられる。それは、新しい人格を知った、という大きな発見であり、興味の対象であり、自分とは違うんだと切り離す作業もラクなことかもしれないが、その感情の働き、感覚の違い、表現の仕方、思考回路、全部が違うと、「理解できない」と、呆然と立ち尽くしてしまうことになってしまうのだ。そうだとわかったのは、割と最近、昨年三年生になった頃である。