しかし、女性の役割だの考えていた私に、思いがけなく、モデルとなったのは、男性方になりました。
 それから段々と、大雑把に、自分の生きる方向を見ることができた。
 私は、自分の力量で、できる範囲内でできることをしよう。「できる範囲内で」という言葉は、よく聞かれるが、本当に自分の「できる範囲」を知っている人は、やはり歳を重ねないとわからないものなのかもしれない。どうしても若い間は頑張りたいと思う。そしてそれこそが若さであり、若さの持つエネルギーであり、そういうものがあってこそ、世の中がエネルギッシュになるものだと思う。で、中年期に入って、色々自分がわかってきて、色々あきらめてきて、できない範囲がわかってくる。できない範囲がわかると、「できる範囲」もわかってくる。残念に思う部分もあるけれど、自分のできる範囲がわかるというのは、つまりどこまでできるかわかる、何ができないかわかる、ということで、頑張り過ぎない分、頑張れる限界も大体わかる。その中で自由に動けるというわけだ。
 私には、大好きな「考えること」そしてそれを「文章に表すこと」がある。それを精一杯生かして、自分を表現しよう。自分の言葉で、自分の考えたことを、書いていこう。それによって人の気持ちが動く時だってあるだろう。動かないこともあるだろう。そこは、自分の手を離れた時点で、私のコントロールできる範囲ではないから、動かなくたって悲観することはない。
 結局は、具体的ではないけれど、「表現しよう」ということなのだ。
 相手がどう思うか、どう受け取るかは、ガッカリすることもあれば、失望することもあって、自分の表現のいたらなさを残念に思うかもしれないし、相手に期待してしまっていた自分に気がつくかもしれない。でも、それでも、長い間落ち込み、引きずることはない。相手が考えることだからだ。私にできるのは、表現することだ。表現した時点で、言葉は自分から離れた物になる。自分の物でもあるんだけど、手放して相手が考え判断するものなので、相手の心までをも自分でコントロールできるものではない。
 なので、糸井重里谷川俊太郎に憧れる。彼らと意見が同じとか、すべてに共感するわけではない。でも、彼らは有名なだけあって、実に上手く、こちら側に自分たちの考え、意識の中、無意識の中にあるもの、を刺激するが、私はそこまでの能力はないので、ただ発信していきたいと思っている。
 中年になったんだと、心から実感してから、妻としての役割、母親としての役割ではなく、社会での役割として、女性って何なのだろう、と思い、そこから、自分が何をすることができるのかを考えた。こうありたい自分、それは外見的なことでもあったし、それをつきつめると、内面的なこととつながった。
 幾つになっても、人間的な魅力は必要だと思う。女性としては、結局は、内面がにじみ出てくるものだと思う。表情も仕草も雰囲気も。それは作られたものではなくて、積み重ねられてきたその人自身なのだ。ああ、この人らしいな、この人はこの人の生き方で生きてきたんだと思ってもらえるような、そんなものがにじみでる外見がほしい。それは、その人の表現力に集約しているのかもしれない。
 私の表現方法は、表情とか雰囲気とか仕草とか、無意識なものではなく、意識的なもので言えば、文章が一番である。その次に口から発する言葉。