阪神大震災の直後、「トラウマ」という言葉が何度も出てきて、「心のケア」が必要だと叫ばれた。その時に、ああそうなんだ、自分が傷ついた感じで暗く沈んでいるのは、正常なんだ、ケアが必要なんだ、そういうことを積極的にやってくれている人たち、仕事としている人たちがいるんだと初めて認識した。
 しばらくして、アメリカに住んだ私は、日本で『トラウマ』(デイビッド・マス著 大野裕 監訳 村山寿美子訳 講談社)という本を知り、母に頼んで送ってもらった。
 人の心のメカニズムにハマったいきさつは、今まで何度も書いている。自律神経失調症で辛かったことと、息子が2歳の反抗期に入った時に、どうしたら良いのかわからなかったこと、自分の大好きな親しい友達たちの相談に乗った時に、ある程度の確信を持って意見を言いたかったことなどがそうだ。でも、人生で、一番最初に手に取った「人の心」についての本は、その『トラウマ』という本だった。大学の時、一般教養で、確か「心理学」は勉強した気がするが、当時はまったくピンと来ていなかったからか、今も「教育学」の方がかろうじて記憶の片隅にあるくらいで、心理学の方は全然記憶にない。それでも、英米児童文学を専攻した時、担当の先生が、ある程度、児童心理学に精通しておられていて、子供の心理や教育など、とても好奇心をかきたてられた。箱庭療法に近いもので、その先生が実際に担当した子供の話をしていた。
 さて、阪神大震災で「心のケア」をとても重要に感じた時から16年、その『トラウマ』という本を買ってから15年経つ。
 「今度、ひどい災害が起きた時に、何かそういったことで役に立ちたい」と、当時は漠然と思っていたことを思い出した。長い間、忘れていたけど、思い出した。
 そんな私が、まったく何もできていない。
 しかも、今回の地震の後、心についての、ある勉強に取り組んでいた私は、まったくやる気を失ってしまった。その勉強は、私が本当に勉強したい親子関係のこと、人の心のメカニズムとは少し離れていて、仕事をしている人についてのうつ病や、それに関するデータ、どういった援助法があるかなどについてである。それがなかなか覚えられない。とにかく似たような数字や言葉が並んでいたりして、何がどうだったっけ……といった感じで、なかなか頭に入ってこないのだ。入っても一時的で、次回勉強した時には、半分くらい忘れている、といった感じ。それでも勉強を続けていたのは、いつか形になるものがほしかったからだ。認定心理士とか臨床心理士とかいった資格がほしいのなら、本格的に大学に通わなくてはいけない。経済的にも厳しいが、そこに目をつぶったとして、一番大事な意欲はどうかと問われたら、正直自信がないのだ。本当にやりたかったら、多分お金を工面して、ダンナと息子を説得して勉強するだろう。でも、そこまでの気持ちのエネルギーがない。体力的なことを挙げても、すぐ風邪をひく。すぐ疲れる。日常を過ごすと、余力は少ししかない。しかも好きなことが日々色々あって、作った時間は、文を書いたり、身体を少しでも動かしたり、お笑い番組を観て息抜きしたりと、しているうちに、何だかあっという間に一日は過ぎていく。それを言い訳だとしても、本気でやりたいことならば、何としてでも頑張るはずだが、そこまでではないようだ。それでも、何か人と向き合った時に、こういう勉強をしたから、少し身をまかせてみないかという証明みたいなものがほしかった。だから直接は関係なくても、その勉強なら、試験があって、形に残るので、勉強してみることにした。