ダンナ以外、男性の視線を意識しての服選びはあまりない。とは言え、ダンナにも部屋着からパジャマまで見られているわけで、ちょっと遠出する時に、おやちょっとおしゃれしているね、と思ってもらいたい程度のものだ。まあそれが例えTシャツでも、です。
 父、兄、息子。血がつながっている人は、誰を取っても、私にとっては「この人の前でこんな恰好をするとどう思われるだろう?」という対象にはならない。
 なので、男性の視線として意識するのは、ダンナだけになってしまう。
 個人的に男性と会う、ということはないし、男性と喋ることがあれば、それはどちらかと言えば、その人と会う、というより、シチュエーションになってくるだろう。例えば、行き先が、学校であったり、息子の習い事であったり、どれを取っても「保護者としてどの程度の服装であるべきか」といったことである。或いは、どこか行きつけの店員であっても、その店で何かを食べる自分、飲む自分を想像して、その場にふさわしい格好かを考える。行きつけの美容院だってそう。そういえば、長い間、担当の人が男性だが、そんなことより、そこの美容院で浮かないか、女性店員にどう思われるかと考えている。もう全部がそんな調子だ。
 まあでも、日常的に行く場所ではない時には、なんだかんだと迷いますね。オシャレをするのは楽しいし、今住んでいる場所は、田舎なので、オシャレなんかする機会がなくて、できるだけ、ちょっとしたことで、自分なりのオシャレを楽しんでいます。
 まあそんなわけで、色々考えてみると、結局外見的なものの中で、特にファッションの分野は、ほとんどが女性の視線を意識しているんですね。
 こういったことから、外見的な女側の役割って、姿勢だったり、表情だったり、雰囲気だったりが重視されるし、私も個人的に、目鼻立ち以上にそちらを見て判断するんだなと思った。結局、外見も、男性の視線を意識していたつもりで、実は女性の視線を強く意識していた。役割ということだけではなく、自分の外見の基準として、女性の視線を意識していることは、改めてああそうだったと発見し、もしかしたら、役割というのは、女性としての役割だけでなく、自分がどういう立ち位置にいるのか、意識的に考え、行動するためのものなのかなと思い始めた。つまり、女性としての役割というのは、人としての立ち位置。そしてそれは、つきつめれば、その人の生き方であったりで、結局内面であったりするのではないだろうか。
 そうやって外見的なことって、つきつめればその人の生き方、その人自身なのだ、とか考えているうちに、また迷路にハマるがごとく、自分の内面へと考えは向く。ああ、ゴールはいずこに。
 なあんて考えていた頃に、東日本大震災に遭った。
 そこから、私の考えが、今までより、速いスピードで、ずんずん突き進み、ほぼ自分の中での結論めいたものが出てきた。
 ここから、私の生き方について、今後について、中年女性が、心を大きく動かされたことをさらに書いていきます。