女性にしても男性にしても、異性の目を意識する時、「それぞれの好みである」というところは大きいんだなと、夫と話していて感じたが、私には、やはり、そっくりそのままでなくても、目標とする女性像が、内面的なことと一緒に外見的にもあった方が良いのだろうと思うようになった。そして、そこからさらに次の段階へと、思考が進んだ感じである。
 内面的、外見的に、中年期の女性に求められること。
 それは、「自分の表現の仕方」に通じると考えた。自分や、生き方をどう表現するか。それこそが河合隼雄も書いていた「自己実現」ではないだろうか。何だか不思議だ。求められることを考えているうちに、自分がどう自分を表現するかという、能動的な結論が出た。
 周りに流されずに毅然としていること、相手が自分の言葉や態度でどのように感じるかある程度、意識的であること、物事を真摯に考えて、考えることから逃げないこと。結局、これは、私の好みの男性像につながった。そして、「秀でたもの」があると、もっと良いわけだ。女性にそういうのを求めているかどうかとなると、私自身の、女性に対する見る目もわからなくなるのだが、そういうのがあった方が、単純に、日々の暮らしが楽しくなるのではないだろうか。日々を暮らしていると、実際の時間とは別に、自分の感覚は、長かったり短かったりする。これからもっと速く短く感じるとよく言われるが、それも感覚的なものなので、どうしようもない。大事なのは、自分がどう生きているか、それを話せるかということだ。笑い話にしたって良い。その積み重ねてきたものの表現方法は自由だ。長く生きていると、自然に積み重ねてくることも増えてくる。それを言葉として表現できるようになっていると、人生はとても豊かなものになると言えるだろう。
 少しずつ、自分なりの結論が出てきたところで、タイミング良く、アラフォー世代の有名人に対するインタビューが、新聞に連載された。その中で、私が印象的だった人がいた。その職業は、女性ばかりで特殊かもしれないが、その彼女が「幾つになったとかあまり意識しません」と言っていたのは、決して強がりではなく、心から出た言葉であるように感じた。何故なら、その人の「周りが女性ばかり」だからだ。彼女の先輩はたくさんいるわけだ。つまり、目標があるというわけですね。目の前に、「こんな風になりたい」「こういう風に歳を重ねていったら素敵」という対象があれば、中年期だろうが、精神や身体に変化があろうが、「でもこれを超えたらこういう風になろう」と思えるんじゃないかなと思う。彼女は、そういった意味では、恵まれた環境にいると言えるだろう。
 つまり、誰か、そういう目標というか、憧れというか、「こんな風に歳を重ねたい」と思うような人がいれば理想的。男性はそういう面では、対象が見つかりやすいかもしれないですね。仕事しているし、仕事している上司に当たる人も、身近にたくさん見れるわけだし。女性は、仕事していても、そういう対象は多くはないから、選択肢が少ない。良いなと思っていても、幻滅したり、その人を取り巻く現実も厳しかったりで、なかなか「こんな雰囲気で、こんな歳の重ね方をして」という人は見つからないかもしれない。とりあえず、私は、テレビで目にする人々を、そんな風に見ることにした。
 そうやって、目標となるような人を日常的に感じること。常に考え続けること。外見的なことは適度な運動を続けながら、姿勢の良くするのを意識すること。
 さらに年を重ねると、どんなおばあちゃんになりたいと思うのかな。その頃には、今より、もう少し肩の力の抜けた可愛いおばあちゃんになりたい。きっと、若い人とは違ってはいても、華やかなファッションもまた身につけ始めるだろう。