それから、5年後くらいに阪神大震災が起きた。
 ボランティア元年と言われ、多くの人がボランティアに携わった。私もパートで働きながらも、ボランティアとして動くエネルギーがあり、隣りの市の市役所に行った。荷物の仕分け作業であり、そのことを当時一緒にパートで働いていた人に何となく話すと、その子も「次は誘って」と言ってきたので、二人で行ったこともあった。
 何をして良いのかよくわからなかったけど、現場に行って動けたことは良かった。ただ、軟弱者の私はすぐ体調を崩してしまいましたけどね。
 その後は、市の国際交流センターで、日本語講師助手のボランティアをやってみたり、別の市に住んだ時は、やはりそこの市の国際交流センターで、ボランティアとして、情報紙作りに携わったりした。
 ちょこちょこそうやってボランティアをやってみると、つくづく、行動を起こさないと何もわからないということである。そしてそれは、あくまでも能動的なものである。
 偽善ではなく、ボランティアは、自分の善意の一つに過ぎない。善意と言うと、よそよそしいけど、ただ、人のために何かしたいという気持ち、それだけである。
 それが、「私は人のために何かした」と、アピール目的で話した時点で、偽善になってしまう感じがある。ただ「こんなことしたんだよ」と話すだけとか、手伝ってと声をかけるだけでは偽善にはならないのに、不思議なものだ。偽善と感じてしまうのは、「良いことをしたという自己アピールが大事」と思っている心が見えてしまうからなのだろうか。
 自分の「人を助けたい」「手伝いたい」という気持ちに、自己アピールは必要ない。
 最初、行動する前や最中は偽善でも何でも良い。何かする前は自己アピールのために動こう、でも良いのだ。ボランティアはやってみるきっかけが必要なので。
 だけど、終わった後で、それを手柄のように話して終わり、では、やはり偽善だ。
 善意、厚意は、自分の気持ちから出てくるもので、まったく何の行動にしない人も私にはよくわからないけど、それを人に押し付けたり、私ってこんなに善意があるのよとアピールしたりするのは、その気持ちから離れている気がする。ボランティアは、もっと単純なものであるべきです。「その人の気持ち」です。まさに、よく言われる「できる範囲内」ですることだし、自分を犠牲にすると、別の感情が生まれてくるので、違うと思います。
 今回の、東日本大震災でも、次々とボランティアが活躍して、素晴らしいことだと思います。今の私には、阪神大震災の時のようなエネルギーが湧いてこず、今自分の住んでいる所で、できることをしているだけなので、もっと、生活自体が大変な現地に行って、活躍している様子は本当に心強い。ああいう人たちがいるから、復興していける、と言えるのは間違いないです。
 現地を見たら違った感情が湧くというので、実際に見に行ってその手伝いをしたい気持ちはあるけど、でも気持ちも身体もここから動くことができない私たちにできることもあります。子供たちのために、大人は明るく強くいたいと心から思っています。