皆のために尽くしている、と、キャンプの現地では、異常とも思えるテンションの高さで盛り上がり、軽口をたたいて、笑い合う。その貼りつめた感じと裏腹に、都会の街、日常に戻ってくると、なかなかのだらしなさと、口の悪さであった。
 何故こんな場で我慢しなければいけないのだろう。私はそんなに人に役に立つこともしていないし、子供たちをまとめる手伝いをしたり料理の手伝いをしたりしたところで、そんなにエライわけでもない。
 改めてボランティアって何だ、と考えた。
 周りから善意と見られる行いを、我慢してすること、がボランティアではない。それは偽善ですよね。本人の心から湧いて出てくるものであれば、それをどんな人からどんな風に見られようと、私は偽善とは思わない。でも、その団体の中にいて、「ボランティアでリーダーやっている」ということに、皆が酔っているだけのように見えた。少なくとも半分位の人はそう見えた。もちろん、自分たちが楽しみ、そこでの作業が好きだという人たちもいたし、静かに真面目に行動している人たちもいた。
 その団体の、大勢の飲み会じゃなくても、少ない人数でも嫌な気持ちは付いて回った。そこにいない人の悪口を聞かされるのがイヤだった。私はそうは思わないなと思うことも多かったし、それでも真剣に議論したい相手たちでもなかった。キャンパー(キャンプに来る子供たち)のことを笑ったりする人もいて、さらに嫌悪感が湧いた。アメリカから参加した学生たちのノリはすごくて、確かに日本人から見たら「ナンだこのノリは」と思うかもしれないけど、私はその迫力が楽しかったし、ティーネイジャーの彼ら彼女らの純粋な気持ちが可愛かった。でも、それを後からバカにしていた人たちがいて、すっかり幻滅した。
 あっちでこの人の、こっちであの人の、噂話が飛び交い、皆が何のためにそのボランティアのリーダーをしているのか、疑問を強く持って、辞めたくなった。
 さらに私は静かに頑固であった。やりたくないことはやりたくない。若かったので、私は、すごく真っ向から拒否してしまうこともあり、それでますます皆との距離は空いた。仲の良い子の多くは辞めていった。
 ボランティアって何だろう。偽善て何だろう。
 その後、アルバイトとして、別の団体でキャンプのリーダーをしてみたが、それも違う、という感じだった。子供たちが終わってから、別の部屋で飲み会があって、何となく皆がだらしなく笑っていた。仲が良くもないのに、腹を割って話す気にもならない。そこでも、誰が活躍できたかが話題になり、うんざりした。皆がとにかく、自分の顔を売って、そこで活躍することに一生懸命で、私にはとても違和感であった。仕事ってそういうものかもしれない、その後、上に立っていく時に必要かもしれないけど、私にとっては、そこにいる人の助けになりたい、という気持ちが強く、自分の欲求とか野望とかそういう物を少し横に置いて、何を必要とされているのか、リーダーとして、或いはボランティアに臨む者として、そういうことを考える方が大事だった。真摯に自分の立場を見つめたかった。