ボランティアのように、自分をある程度犠牲にしないとこなせないようなことは、積極的に動いていかないと意味がない、と思う人も多いだろう。でも、静かに動いている人、心が強い人は、意外と貴重です。積極的に動いている人は、その存在に気付かないといけないとさえ思う。それは、そのキャンプのリーダーを辞めてからつくづく、そういう集まりを見て思うようになった。
 何が大切なのか。……それは、その場で自分を生かすことというよりも、自分のしていることがいかに力を必要としている人の助けになるかということ。なので、自己アピールは、必要ないのだ。
 その渦の中にいると気付かなかった。特に「大学生」という若い年頃。皆が自己アピールする中に埋もれて、私は圧倒されてばかりだった。それでも静かに底辺で動いていた。そんなに必死でもなかったし、役に立っている実感もなかったし、そんなだからいつまで経ってもやることは同じようなことだったけど、でもそういった一人一人のすることに無駄なことは何一つないと思う。
 ただ、そう思えるまでには、長い長い年月を要した。当時は、自己アピールできない若者なのだ、と自分のことに気づいて、焦っている自分に、漠然とした違和感が生じる、といった感じ。目立とうとすることに何の意味があるのだろう。それは、上の学年や、それを取り仕切る人へのアピールにはなる。それで、重要な役割につけるようになる。でも、上の学年の人たちが、私たちの学年を含めた下の学年の人たちを評価しているのが聞こえてしまった。彼女らは、私がいることに気づいてはいました。でも、意地悪だとかそういうのではなく、別に私が大人しいから、目の前で言っても構わない、口も堅いだろうと思っているようだった。上の学年の人たちがいる中では比較的静かにしていた私だけど、同学年の女子同士だと当たり前にフザけていたし、楽しく過ごしていた。人見知りの強い私は、上の学年の人たちの前では遠慮が強くて静かにしていただけである。
 彼女たちは「○△さんは、役に立つ。△□ちゃんは、使えるよね。」という言い方をしていた。そこで、私は大いに不快に感じた。
 そうやって、性格も人柄も無視した判断の仕方で、次にどの役職に誰をつけようか考えているのだろう。でも、その分類の仕方で言えば、私は「使えない人」でした。それで最初の目覚めだ。この人たちは、そうやって人を見ているのか。ここは何の組織なのだろう。社会の縮図?……にしては、目的は何だろう?若くて頑な、潔癖な心がすごく傷ついた。
 私が物静かだからと、内輪でしかわからない冗談を言って、笑っていた。私には内容も意味もわかっていたけど、笑わなかった。聞こえないフリをしていた。この人たち、私がわかっていることに気づいていないのかと愚かにさえ思えた。
 そのリーダーたちの全体の飲み会は、ひどくだらしないもので、そんなびっくりするようなことはなかったけど(笑)でも、ボランティアだリーダーだと息巻いている人たちが、大勢でよってたかって、何だかあっちでギャーギャー騒ぎ、こっちでベロベロに酔っ払っているのを見て、嫌悪感すら湧いてきた。