今年、大きな地震が来て津波が来て、また、ボランティアという役割が注目されるようになった。
 個人的には、ボランティアは、どんどんやったら良いと思う。偽善と言われようが、一時的と言われようが、それは他人の評価だ。そんなこと気にせず、やってみようと思ったら、一度やってみたら良いと思う。それで少しでも困っている人たちの助けになるならば良いと思う。大事なこと、考えることは、その後で良いんじゃないだろうか。
 何を感じたか、「一時的なこと」と言われて、本当にそのまま日常で忘れていかないか、心にとめているか、ということなど、特に今回は、継続的な息の長い支援が必要だと思うので、どんな内容のボランティアでも、何年も、少なくとも1年は続けてみる、度々思い起こして支援するという気持ちを忘れてはいけないと思う。
 そんなわけで、ボランティアについての考えを整理したくなって、色々思い返している。
 私が初めてボランティアをしてみたのは、キャンプのリーダーという立場だった。それは、自分でしたかったとかではなく、当時仲の良かった友達に誘われたからだ。ボランティアとは言え、そこのキャンプ地に行くまでの船代、バス代は、そこを運営している側が出してくれる。寝る場所は何もない小屋で、キャンプシーズンが始まる前は自分たちで掃除し、度々大きなクモと闘いながら準備しなくてはいけないが、ランプ、シュラフと共に貸してくれる。トイレやシャワーも貸してくれる。料理も自分たちで分担して作るのだが、料理代だって払わなくて良い。これでボランティアなのかと言われたらまあそうなんだけど、とりあえず、キャンプに来た人たちの面倒を一定期間みていかなければならず、そのための訓練も怠りなく、それに対しての報酬などはない。でも、私にとって、ボランティアの原点かなと思うのは、一度も「バイト代出ないのかあ。」みたいなことを思ったことがない、ということだ。最初、ただ楽しんでいるだけの時は、正直、旅行みたいだった。そのうち嫌なことも山のように出てきてしまったんだけどね。でも、皆、大学生ですよ。本気でやってみたって、今思い返せば、自分の成長の一環になってしまうわけです。人数も足りていたし、いつだってやめられた。だから、当時の私は「ボランティアやってます!」という気負いが、まるっきりなかった。
 その時に、ボランティアって何ぞやと、かなり考えたことがある。
 何故考えることになったのか。
 やめたくなったからである。
 何故やめたくなったのか。
 段々、「ボランティア」という言葉と、自分の理想とわがままと、周りの人の様子に、色々なズレを感じ始めたからである。
 私も当時、まだ20歳くらいの若造です。人ってこうあるべきだ、っていうようなわがままな理想がついていた。でも、若い時って、それくらい頑なで、理想的であるべきだと今はそうも思います。だから、ボランティアをする人って、もっと純粋に湧いてくる気持ちであらゆるお手伝いをしてほしいと思っていた。そして、人に対して潔癖であってほしかった。