映画について、感動する場面が人それぞれだというくらいの方が、観終わった時に、スケールの大きな感動が残る、という風に考えた。
 「感動のお仕着せ」は、やはり伝わってしまう。「ここで感動して下さい」「泣く場面ですよ」というのが、わかりやす過ぎる。確かに、お涙頂戴の場面で、涙もろい私みたいな人は、大人でも泣く。観終わった後に、与えられたテーマや感動した場面については考える。でも、次から次へと色々なシーンが思い浮かばない。あれも良かったこれも良かった、あそこも感じるものがあった、ここはスゴかった、などと口々に感想を言いたくなる感じにはならないのだ。そういう映画は、多分好きな映画トップ50とか範囲を広げても、その中には入ってこないのだろうと思う。実際、良かったシーンや簡単なストーリーは思い出しても、全体的な流れというのが思い出せなかったりする。
 幼い頃、観た映画の技術やストーリーが、当時にしては画期的な物も多かったのだが、特別優れているわけではないだろう。演技だって、今となっては笑えるものもあるわけで。でも、感動はある。うまくすれば、好きな映画の中に感情が入りこみもするわけだ。それは、「ここで感動」という場面が例えあったとしても、そこだけではない、受け取る側の感性にまかされる場面がたくさんあるからだ。好きな場面が、人によって違ったりする。私はそういう映画が好きなのだと、改めて自分の感覚を分析した。もちろん、私が運良く良い映画を観たのがアメリカであって、帰国して観た映画に失望したのが日本の子供向け映画であったというだけで、日本でも優れた映画は山のようにある。ただ、私が幼い頃観たガッカリした映画の類は、「子供向け」といった時点で、子供にわかりやすい感動を与えようとしているのが、私は単にいやなのだ。子供心にもその違いくらいはわかってしまうと言いたい。その場面限定の感動ではなく、大きなドラマがほしい。
 『トイストーリー3』では、最後に感動が胸一杯に広がった。ちなみに私が泣いてしまった場面は「助かるだろうとわかっているのに、燃やされそうになるあの瞬間」だ。皆の「あきらめて、覚悟を見せた表情」を見て、涙が出てしまった。映画だしさ、助かるだろうよ、とかそりゃわかってるけどさ〜(笑)、人が(おもちゃだけど)死の覚悟を決めた瞬間、仲間と手を取り合った瞬間、の気持ちを想像すると、泣けてしまった。あれは、泣く所じゃないかもしれない。でも、私の感性を刺激したのだ。
 最後の場面で、静かな感動が広がった。これで良かったと思う人もいれば、ああすれば良かったのにと思う人もいるだろう。お涙ちょうだいの場面は一つもなかった。「ここで感動して下さい」という場面もなかった。でも、胸の中に広がる静かな感動。その観せ方が、実にうまい。「うまい」とか書いているけど、うまい、下手、は、本当はわかっていない(笑)。単に「ヤラレタ!」と参った感じがあった。
 息子と、今まで観た映画について話す時、夫も私も息子も、皆が「ここ好き」「ここ面白い」と言う場面はそれぞれに違う。同じ場面もある。そうやって「違う」ことを話せる映画が、私には良い映画だと思える。