子供は、親の前で弱者である。親はそれを忘れてはならない。子供は自分自身がどんな立場だろうと、どんな親が相手であろうと、親を欲している気持ちが根底にある。だから、私の周りの親たち皆、子供たちの、親に対する気持ちに自信を持っていてほしい。
 この事件から、犯人を通して見えた親子関係。そこから私が改めて感じた親と子のことで私が言いたいのは、子供が親を求める気持ちを忘れてはならないということ。それを忘れて、自分の意のままにあやつりたい、「自分の」思い通りの子供に育っていないと、失望した、というメッセージを送ることは、子供に大きな傷を与える、ということだ。
 最低限のしつけは必要だ。「最低限」とはどのくらいか。怪我を負わせるほどの危害を人に与えない、身の回りの危険を教えてやる、「その子の成長に応じたルールと行儀」を教えてやる、ということだろう。あとは、表向きなことではなく、心を育てると言った意味で、親には責任がある。
 犯人は、発達障害の気はないと診断されたそうだが、発達障害があってもなくても、この程度の子供なら、そこらにいる。それを緩和できなかったのは、残念ながら親の責任もあると、この思い出を聞いて、私はそう思わずにいられない。親から独立してからも子供は、親の多大な影響を抱えて社会生活を送り、結婚生活を送り、子育てをする。
 彼が大人になってから、親は一度、本人に直接謝っている。その時にどれほどの感情があり、どの程度具体的に伝えることができたのかは想像できないが、その当時の前後の家庭内の様子を読んでいる限りでは、「申し訳なく思い、漠然とただ謝った」ように受け取れる。犯人だけが、当時、必死で、家庭を家族として立て直そうとしていたように思えるのだ。彼の思う家庭像はどんなだったか、その思いを親は聞いてやり、その望みを考えてみようと努力したことはあるのか。「自分たちの作りたい家庭」「こうであってほしい子供」になってもらうことに躍起になり過ぎて、子供の人格を無視したり、否定したりしていなかったか。親は、子供のために、ある程度生活を犠牲にする義務があると思う。自分の理想を考え直す必要がある。世話をするという当たり前の日常生活以上のもの。それは、人間としての「心」を、思いやるという点で、自分の生活をある程度は、犠牲にしてまでも、考える価値はあると言いたい。この親子は、最低限の世話はしていたようだが、子供の気持ちを、子供の立場に立って考えるという、非常に大事なことを怠っていた。
 犯人はしかし、「感情的にではなく、考えた結果、親の影響があるとは思うが、親のせいだとか、うらみだとかは思っていない」というようなことを言った。どの程度、真意なのか、はかりかねるが、とても正常な考えであり、犯人が、冷静に客観的に物事を考えることができると証明できる点だ。
 では何故、あんな事件を起こさなければいけなかったのか。何度も書くが、あることが起きてしまった後、原因を探った時に、家庭環境にたどりつくことはあるが、じゃあ同じ家庭環境の人が皆そのように育ち、同じようなことを起こすのかと言えば、そうではない。「こう育てたから」「こうなった」は、成功した偉人に対しても犯罪者に対しても、イコールではつなげられない。今回の事件も、犯人の幼少期には同情し、胸が痛むが、事件とは「直接」には関係がないと言わざるを得ない。そして、どんなに罪を償っても、被害が消えることはない。今の社会のままでは無理なのかもしれないが、二度とこのような事件は起きないでほしいと、強く願う。そして、その責任の一端を世の中の親は担っていることを、私たちは日々、揺れながらも、よく認識しておかなければならない。