初めてこのエッセーに、「今」の気持ちを載せます。
 11日、私は福島県の某所で、地震の揺れを感じていました。
 私は、阪神大震災の時、宝塚の実家で、激しい揺れの中にいました。最初にグオーっという地鳴りがし、またたくまに、尋常ではない揺れを感じた私は、ベッドから飛び起きて机の下に隠れ「天井が落ちてくる!」「この世が終わるんだ!」と思いました。ほどなく揺れがおさまり、両親の部屋に飛び込みました。家具はほぼすべてが倒れ、2人くらいでは動かせないようなピアノや冷蔵庫も移動していました。屋根瓦が落ちたり、壁にもヒビが入ったりました。でも、家はとりあえず形を成していて、無事でした。電気も数時間で戻りました。ガスや水道は少し日数がかかって、毎日何とかしのぐ方法を知りました。
 中学高校時代の友人たち、知り合いたちは、西宮〜三宮の間に住んでいる人がほとんどなので、テレビを見てすぐに顔がこわばりました。久しぶりに笑った瞬間も覚えています。顔の筋肉がぎこちなく動いた瞬間でした。
 大体、気持ちが落ち着いたのは半年くらいした夏でした。地震のことを話す時に声が震えなくなったのは、10年位経ってからでした。それでも、家がまだあること、家族が皆無事なことは恵まれていて、避難することもなく、比較的軽い被災者です。友人たちは、家族を亡くした人はいるけれど、本人たちは無事でした。地鳴りの音は今でも覚えているので、それに似た音は今でも怖いです。これはずっとだと思うので諦めています。
 今回のは、大きくそして、何よりも特徴的だったのは、「長い」揺れでした。私の住んでいる所は、激しい揺れはなかったけど、大きくユラユラ揺れ続けて、何分も恐怖心をあおられる感じでした。あまりに長いので、泣きながら「もう良いよ!」とか叫んでいました。息子は学校、夫も仕事、テーブルの下で、柱にしがみつきながら、何度も携帯をかけようとするけれど、手が震えてなかなかかけられない。やっとかけてもつながらない。それを何度か繰り返すほどの長さでした。
 阪神大震災の記憶から、安全な場所にいる息子のことは、少なくとも1時間我慢して迎えに行かないでお互いの安全を祈っていようと思いました。が。1時間ちょっとして、近所の友達のお母さんに連れられて帰って来ました。無事で良かった。けど、皆すぐ迎えに行ったらしく、残った生徒たちは、全学年で1クラス分位にしかならない数だったとか。どんどん帰っていく友達たち、迎えに来た親たちを見て、息子は何と思っただろう。どんな思いで残されていたんだろうと思うと、胸がつぶれるようでした。ちゃんとした理由はあったけど、とにかくそんな思いをさせたことに関しては、謝らなければいけないと思い、誠心誠意謝りました。ごめんね、本当に心細かったね、寂しかったねと話し、日ごろから阪神大震災の話はしていたので、経験から来た判断と行動だったのだということも話しました。当日、息子はニュースを見ていて顔色が悪くなり、晩御飯を食べれず、トイレも一人で行けず、早々と布団にもぐりこんで「一緒にいて」と頼んですぐ寝てしまいました。
 周りのことがわかってきた二年生という年頃、小さな頭でどんなことを感じ、どう考えているのか、息子の気持ちを思いながら、薬をのんで寝ました。