さらに、自分でおかしいと思うのは、あまり興味のない話題を、長く座って聴いていることができない、というところ。これまた走りだしたい衝動にかられます。一方的に、じっと話を聴いていることが、苦痛でならない。これでよく、授業中じっと座っていられたなと思う。しかし、小学生のころは、しょっちゅう先生の話を聞いていなくて、自分の世界に入っていたし、だいたい、先生の説明を聞いても、訳がわからなくなって、何を言っているのか、何を指図しているのか、わからないことも度々あった。
 中学生以降も先生の、何かに対する説明がサッパリわからないなんてことも多かった。一度、友達に強く誘われて、バレーボール部に入ったが、その団体行動というものの大切さを尊重することがあっという間にいやになって、すぐに辞めた。しかし、何よりも自分で問題だと思ったのは、細かいルールや作戦を立てるという説明を、弁当の時間に先生が中心になって会議をすること。それが、まったくもって理解できなかったのだ。「何でこういうことをするのだろう?」という段階ではなく、単純に、先生の説明の意味がわからなかった。何を言っているのかわからない。チンプンカンプンです。ワタシ、ニホンゴガ、ヨクワカリマセン。と、言っても差しつかえないんじゃないかと思うほどで、話が進めば進むほど、取り残されていった。やはり座っていることが非常に苦痛になってきてしまい、上下関係と団体行動の大切さが窮屈で、アッサリやめた。その部に入っている友達たちの中に、何人か、大好きな友達がいたにもかかわらず。この頃の自分の感覚を思い出すと、友人関係と、自分のしたいことしたくないことを切り離して考える息子のことを「マイペースだな」と呆れることはできない。自分もかなりその辺の線引きが正直だった。好きな友達がいるから一緒にする、とか同じことをする、とかは、私にとって全然つながらない。自分のしたいことはしたいこと。それが例え一人であっても構わないのだ。
 少し話がそれたが、大学の頃は、授業が1時間以上ある。大好きな先生の話はいつまででも聴いていられたが、興味のない話は、座っていることがとても苦痛だった。お尻は痛くなってくるし、じっとしていられない。いきなり立ちあがって逃げ出したい衝動にかられることが何度も。やっぱりおかしいかなあ。なので、今は子供の、教育関係での、「興味のない話を聴く」時間が耐えられない。申し訳ないが、あまりもの苦痛のために、なるべく出ないようにしている。だから、聴きたくもないんだけどねぇと言いながらも出席して座っているお母様たちに、本当に頭が下がる。よく我慢していられるなと思うのだ。
 他の人が、何気なくこなしていることを自分はできない。これが、私にとって、壁に感じる所です。そういったことを、最近は、軽く「障害」と呼んでしまう風潮があるような気がする。もしもそれを障害と簡単に呼ぶならば、私だって障害があるということになります。そして、ほぼ全ての人間に、何らかの障害はあります。ということになる。皆、多かれ少なかれ、苦手な出来事があり、明かしてくれると結構特殊なことが多い。
 さて。皆さんはどう思いますか?自分のおかしな所を自覚し、受け入れていますか?私はこれで、心から信頼できる親しい友人が何人かいるし、表面的な楽しい話からそこそこ深刻な話をする友人、というような、特定の友人も何人かいるし、日常生活に支障をきたしてはいないので、これで良いと思っています。自分が良ければそれで良い、っていうのではない。周りと適度にバランスを取っていれば、大人も子供も何かしら際立って苦手なもの、得意なことがあっても気にしなくて良いはずだ。そこを、あえて気にしなければいけないのではないかと、心配しすぎる最近の社会の風潮が、窮屈だと思う。