さて、「発達障害」には、色々な種類がある。この言葉がやたらに注目され、その本当の意味をわかっていない人々からも適当に解釈され(私も人のこと言えないけど)、言葉だけが一人歩きをしてしまっている感じもある。
 何故この言葉が注目されるようになったかは、最近の犯罪者の傾向にあるように私は感じている。 普段から周りに様子が変だと思われている人が犯罪に及んだ時、「やっぱり」となる。「やっぱり、普段から変だったから」とか思って、とりあえず納得しちゃうのだ。自分の考えられる範囲外のことが起きた時、人は何か理由をつけたくなる。そうでないと、日常生きていくのが不安で怖くなってしまうからだ。偶発的な事故、不運な事故でさえ、人は理由をつけたがる。あんなことしていたからよ、ああいう人だから、と。もう運が悪かったとしか言えない不慮の事故に、理由がどうしても見つからなければ、その人の名前にまで理由を求めることさえある。名前が悪い、とか。占いを見たら、悪い方角だったとか。とにかく理由を求めたい。そうでないと、いつ自分がそのような目に遭うか落ち着かないんですね。自分にもそういう部分があるからわかるのだが、でも、「ああいう人だから」という理由は何なのだろう。
 「普段から様子が変だった」「ああいう人だから」って何か。どんな人か。何故普段から様子が変なのか。そこに疑問が出てきた時。反対に、周りにからは普通に見えた人が、凶行に出て、何故なのだろうと、自分の周りにもそういう人がいないかと心配した時。ある傾向が浮かんできたわけで、最近それをまとめて「発達障害」にしてしまったような感じに見えます。「発達障害」とわかれば、世間も「だからか」とオチにしてしまい、とりあえず納得して、そのことをもう考えないようにする。
 説明が乱暴ですね(笑)。
 でも、最近急に注目されるようになったのは、そんなことからだと思われます。
 いわゆる、健常者に対しての、養護学校などに通う「障害者」とは違って、「発達障害の人」は、一見してわからないことが多いので、健常者と思われる人たちが怯えてしまっている感じがある。
 しかしですね、私は古い人間なのか?と思うくらい、私には「障害」という認識に対し、とても抵抗を感じるのだ。「障害者」だって、その呼び方にこだわり始めると、とても難しい問題になってくる。多数派の送る社会生活をこなすことに対し、身体をスムースに動かすには障害がある者、障害を感じる者、うまく生活をこなせなくて社会生活に障害がある者、ということになるのだろうか。一人ひとりどんな障害があるかもわからないので、まとめてそう呼ぶけど、当人たちはどう感じているだろうか。
 私の息子も「どもり」がよく出て、会話が辛そうになることがあるけど、私は「吃音」という言葉に馴染みがないし、「どもり」で良いと思っている。それを差別用語だという風潮もあるが、そういった関連の本を読むと「どもり」という言葉に愛着があると思っている当人方が多いそうだ。どもらない人との距離感を「吃音」という言葉で、さらに遠くしている感じがある。息子は「どもって」いることがある。息子とそのことについても話す。夫も、息子と話す。最近の息子は、正直に「言いにくいんだよ」と言ったり「今、すごいどもっちゃったよね」と爆笑したりしている。