甘えと甘やかしを、区別できない親が多い。
 自分も時々自信がなくなり、その度に確認してしまう。その揺れてしまう心に、自分に対しても、ため息が出る。改めてここに書きだしてみよう。
 甘えさせることのできる親は、愛情を惜しみなく示すことができるし、子供にも判断する機会と、それに対する責任を持たせている。それは、子供を自信に導き、誤りのない自己評価と自立へつながっていく。
 甘やかしている親は、子供の言いなりで、けじめがない。そうでなければ、いざという時だけ子供に責任を押し付ける。又、口では厳しいことばかり言って子供の自尊心を傷つけながら、いけないことを本気でやめさせない親は、もっとひどい。傷つけながら甘やかしているということである。自分はこういうことをしてもらって当然という意識だけを植え付けながら、自己評価は低くなっていく。子供がこうしたい、と主張する時、すぐに聞いてやるのも甘やかしである。でも、そこに正当な理由があり、しっかりと説明でき、賛成できることであり、それに関して責任を持たせることができたりするなら、それは話しあいながら妥協点を探すのが理想的だ。それは甘やかしではない。もちろん親が毅然とした態度を通さないといけない場面や物事もたくさんある。そこは各家庭の判断だろう。
 そして、今まで書いてきた忘れてはならないこと。
 泣いているのを叱ってやめさせるのは、しつけではない。泣くのを聞くことがいやだという「自分の感情」「自分の心の問題」だ。しかし、泣いていること自体は、その子供の気持ちである。これを受け止めるのが母親である。それはもちろん放っておくというのではない。泣いている気持ちはしっかりと受け止めてやらなければならない。でも、泣いたり怒ったりして主張してくる子の言いなりになるのは甘やかしである。その主張の中に、ただのわがままを見つけたら、そこは毅然として接しなければならないが、その怒りや主張は、感情として、まず受け止めるのが母親の存在だ。
 喋りたい気持ち、話を聞いてほしい気持ち、誉めてほしい気持ち、悲しく辛い気持ち、これを積極的に聞いてやるのは甘やかしではない。聞いてその感情を受け止めても、だからと言ってそれを聞き入れてその通りしてやることではないのだ。
 こういった「感情を受け止めること」が、母親に求められていることではないだろうか。たった一人の息子だが、言葉も喋れない頃からの、その必死の訴えのおかげで、私は随分考えさせてもらった。母親である私はどう接すれば良いのか。子供は何を求めているのか。それは自分が何を求め、人が何を求めているかということにまで考えが至る。
 皆さんも、そういうことを感じることはあるだろうか。親だけでなく、友人たち、結婚相手に「感情を受け止めてもらうこと」を求めよう。それがたった一人でも良い。その時、その時期、で負の感情までをも受け止めてくれる相手を探した方が良いだろう。もしも、楽しい感情や嬉しい感情、あるいは怒りや悲しい感情、のどちらかだけを受け止めてはくれるが、もう一方の感情は受け止めることのできない相手なら、その関係はフェアではない。遠ざかった方が良い関係である。そして、その相手を子供に求めるのは、子供の感情を縛り付けるものである。子供は親のことが好きだから、逃れられないのだ。
 もしかしたらその相手が見つからず、自分自身の中にしかないかもしれない。もしそうならば、その貴重な、自分の中のお母さんを大事にして、自分に声をかけてやろう。それは難しいことかもしれないが、すごく大事な作業なのである。