色々な種類の、色々な人が書いた本を読んでいくうちに、人の気持ち、心、のメカニズムを段々とわかっていった。
 親の役割。これがまた、単純であり、でも感情的にはなかなか難しいのだ。
 さらに、あらゆる精神療法を勉強する度、出てくる親子関係の症例やそこから見出した共通点。これにはうならされた。まだまだ、目からウロコだったり、うなったりするような本は出てくるだろう。でも今の時点で、一つの「個人的見解」が私の中で生まれた。
 色々な本を読んでは、そうだそうだ!と賛成したり、いや、そうかな、私はそうは感じないと、その作者の押しつけがましさを感じると閉口したり、ここは賛成できるけどあそこはそうは思わないなあと思ったり。もちろん、あーそうだったんだと思うことも多々。
 中でも、信田さよ子さんと、斉藤学さんの書く文には、どれも説得力があった。二人がカウンセリングをした数知れないくらいの多くの人たちの症例を、分析し、そこに厳しくもとても優しい目を感じる。先に答えありきで伝えてくる押しつけがましさもない。つまり、とても客観的であり、冷静であり、そして温かく優しく、苦しんでいる人たちとの距離感が絶妙なのだ。
 私はこの二人の書いた物に、信頼をよせている。
 もちろん、他の多くの著者の本を読み、多くの感動をもらったが、結局、今の時点で一つのテーマに遭遇しました。
 それは、人が求めている「母親的なもの」である。それを「母性」というのかなと思ったことはあったが、正確にはそうではないようだ。子供を育てながら、母性も育っていくもので、最初からはない人も多く、また、子供を育てながらも「母性」が育たない人も多いらしい。ちなみに、「母性」の定義は、河合準雄によれば「父性は善と悪を区別して指導する傾向、母性は善悪の分け隔てなくすべてを包み込む傾向」のことだそうだ。(Wikipedia「母性」より)そしてこれには個人差がある。
 とわかると、私が言いたいことはそうではない。母性ではなく、私個人の思う「母親的なもの」。それは、少年犯罪心理学の数多くの症例を見ても、もっと初歩的に、幼児のダダこねの本を読んでも、そういったことが必要だということと、私は考える。そう直接訴えているわけではなくて、素人の私が、独自に本を数多く読み進めていくうちに、そうか、母親的な側面を人に分け与えてもらうことは、人生に必要不可欠なのだ!と気付いたのだ。今の世の中全体にそういった部分が欠けていると言えるだろう。それが「現代」なのかどうかは私にはわからないが、よく「昔は近所や社会全体で子育てをしたものだ」などと言われる意味がこれで説明できる。電車や公共の場で、赤ちゃんが泣いたり、子供がフラフラとのんびり歩いたり、ちょっと声高らかに喋ったりするのを許さない風潮。ちょっとした不祥事は良くない、許されることであってはないけれど、それを深い考えもなく、証拠も定かなのかまだはっきりしない時から、よってたかって一斉にたたく、いや、たたきのめす風潮。世の中に、母親的な側面が少なすぎる気がするのだ。
 今まで、こういったことは、私自身のエッセーでも書いてきたようにも思えるが、それは本当に理解していたわけではなくて、頭で理屈としてわかり、「受け止めるべき」「器を大きくしなければ」「懐深くするものである」と、法則のように考えていた。