さらに、しばらくして、夫に「どんな人と友達になりたい?」と聞かれた。
 「??友達??どういう友達のこと?」と聞き返すと、「本当に親しくなりたい人。心を許せるような。」と言うので「え〜……。お互いの意見とか考え方を尊重し合うことのできる人。」と言った。
 ここでまた「それは帰国子女っぽい発想だなあ。」と言われた。
 そうなんだ。でも誰でもそうじゃない?尊重しあえないといやだよね?
 と聞くと「いや、そういう考えを意識的に持っていて、それが一番に出てくる、っていうのがアメリカの文化が入っているような気がするよ。」と言うのだ。
 そうなんでしょうか。
 私には自覚がありませんでした。
 友達は、少しくらい考え方や環境など違っても、違うってことだけなら気にならない。違うから、話をして、お互いの気持ちを受け止められるような、そういう人が何よりもの条件である。私の親友たちは、私と生活環境も違えば、家庭環境も違う。もちろん細かなところで意見も違う。でも、「そうなんや。」とお互いの意見を受け入れられること。そしてどうしても自分の考えを言いたい場合は「私は違うなあ。」と言い合えること。これは私にはどうしても外せないのだ。何となく無理して合わされるのもいやだし、受け止めきれないほどの相違があったら、それ以前の問題なので、親友にもなれないだろう。
 お互いの考え方を知り、あっそれもアリだねと思い合えること。そして、自分とは違った部分を「それ良いね」と、素直に言い合えることは、一番に大切だ。そうすると、お互いの話も、とても興味深いものに思えてくる。お互いの幸せも本気で願える。
 自分で「私ってこういうところが帰国子女っぽいな。」と思う所は多々ある。
 例えば、日本人の集団がいる時、皆にどの程度自分を主張したら良いのかわからない。7歳で帰国してから、目立つことで、出てしまった杭を随分と打たれてきたので、できるだけ目立たないということに心を砕いてしまった。お陰で、どの程度が良いのか、加減がわからなくなってしまったのだ。これは今でもそう。
 ただ、ここは外せないというポイントが、自分の中にある。ここも帰国子女っぽいし、そこは、どうしてもハッキリ言わなければちょっとおかしいのではないかと思うところでは、すごーーく控えめな言い方にはしているが(その辺の加減がわからないのもまた帰国子女)、自分の意見を言うようにしている。だって「そりゃおかしいのではないか。」と思うからだ。それは大抵、「権利」に関してだ。自分にはそういう権利がある。私の子供にもそう主張する権利がある。ということが多い。そのためには、ハッキリ言わなければならないのだ。
 でも、夫婦の在り方に関する考え方とか、友達に対する考え方に、そんな文化がしみついているとは思わなかった。
 皆、違ったのか。と、改めて思っている。いや、そういうことに意識的な夫を持ったことに感謝するようにしている。夫も海外生活の経験があるからなのだろう。