吉本隆明が、考えるという作業をしているのは、仕事のためでもなければ、日常生活を送る上で、必然性のあるものではない。仕事というよりも、自分のために、または好奇心のために、あらゆることを考え、それを言語化し、詩にしてみたり、文にしてみたりする。そんな時のそれは、彼の人生を豊かにし、考え方に深みを与え、そしてどんどん彼の人生のステージが上がっていく気がする。世間だとか周りの考えや恥に振り回されることないからだ。ある程度世間を知ることは必要だ。しかし、人生は自分のものだ。人生は自分を主人公にして考え、語られるべきなのである。
 人生は、自分のものでありながら、周りの人に支えられている。支えを忘れてはならないし、周りの人がいなければ、今の自分はない。すべての人が、今の自分を作り上げている。井上陽水奥田民生じゃないけれど「好きな人、いやな人、みんなあ〜みんなあ〜、ありがとお〜うお〜お〜お〜 いえ〜い!」なのだ。
 人は決して一人では生きていけないが、自分を主人公にして生きていく価値が、それぞれの人にあり、それを認めない人が自分の周りにいるのならば、それは、自分をコントロールしたがる人間である。
 吉本隆明の、人を見る目というのは、彼自身の考えそのものである。
 彼は、テレビもよく観るらしい。お笑い番組も好むとのことだ。世間は、時代は、何を求めているのか、そういったことを考えるということを聞いて、私は少し嬉しくなった。考えの深みにおいては違うかもしれないにしろ、私たち夫婦が、お笑いを通じて考えていることが、多少重なるからだ。夫とお笑いの話をする時、私たちはその人たちの人柄や、素人目から見たネタの出来栄え、コンビの息づかい、間を感じ、議論を交わす。どこからこのお笑いがつながっているのかを考えるのも好きだ。この人たちは、どういうお笑いを見て育ち、こういったネタをするのか。何故こういった芸風になったのか。誰から、どの時代から、どんな風に。その上で、くだらない内容のものにも笑い、「バッカだねぇ、この人!」とか言いながら、お腹を抱えて笑い転げる。個人的に好きではないお笑いもあり、そういったことについても、夫と何故好きになれないかを話す。(以前も「お笑い」のカテゴリーで書いたことがあるが、ネタやお笑いの人の上下関係を武器にしてしまうような低俗なバラエティ、虐めを連想させるもの、単純に体を張った痛そうなものも嫌いなので、私は観ません。)
 吉本隆明は、糸井重里にも敬意を表しているそうだ。糸井重里は、コピーライターであり、テレビでも度々お目にかかる。そして「ほぼ日」の創設者、編集者である。私の印象では、やはり「考える人」であり、時に哲学めいた文を書く。とても軽く書く。軽いがすごく言葉に意識的だ。ふと思ったことをあんな風に言語化し、文にできるなんて、すごいと常々思っている。まあコピーライターという職業上、当たり前といえばそうなのだろうが、彼の仕事しながら、日常を送りながらの考えには、日々感心させられる。