「優しい父親はダメだ」ということが書いてあった雑誌を見たことがあります。それを読んで、誤解する人もいるのではないだろうかと思いました。
 じゃあ「怖い、厳しい父親が良い」のか。
 いや、「そう極端じゃなくても、やっぱり優しい父親はダメ」なのか。
 どちらももそうとは言えないわけですよね。「優しい」って何なんだってことになりますがね、子供の気持ちを受け止めるのは優しいと思うし、子供の言うなりになるのは優しいということではない。でも、どうもその辺の「優しい」を履き違えて論じている人が多い気がしてならない。
 例えば、心理療法に「遊戯療法」というやり方があり、そこで子供と接する時、できるだけ子供の言う通りに遊びを展開していかなければいけない。ただ、問題なのは「カウンセラーが許せる範囲内」なのだ。心理療法なので、本当にできる限りは子供の言うがままに遊んでやる必要がある。でも、例えば時間が来たら、守らなければいけないし、そういう遊びはダメだという気持ちでいながら、子供の言うなりになるのは、良い結果を招かないらしい。
 父親もそうではないだろうか。遊んでいる時に、色々細かく、厳しい口調で言って、子供を萎縮させているお父さんを公園なんかでよく見かけるのだが、あれは何のつもりか、しつけなのか?と半ば呆れながら見ていることがあります。遊ぶ時は、基本的に子供に主導権を持たせることがコツです。それもそれで「優しい」とは違う。子供の身に危険なことがあったり、子供同士のいさかいで相手に危害が及ぶ場になったりすれば、初めて口出しすれば良い。「生活の場では」、親に主導権がある。優しいの意味やその違いを間違ってはいけないということを書き加えてほしい。
 遊びの中で、子供同士のいざこざがなければ、それは嘘の社会だ。思春期を迎えてから、或いは大人になってから、いざこざに自分で対応できなくなり、自分や他人を、安易に悪者にしてしまうという結果を招く場合があるでしょう。
 しかし、生活の場まで子供に主導権があることを、子供は望んでいない。例え泣こうが、強い反抗に合おうが、ここは譲れない、言うことを聞いて下さい、というところは、聞いてもらわなくてはいけない。ここはまあ良いか、というところは、迷いながらですが、妥協点を探っていきますよね。それはそれぞれの家庭で話し合われるべきことだし、それぞれの家庭で少しずつルールが違うことを、別の家庭の者同士、尊重されるべきもの。皆さんも「ウチの子は、こういうタイプだけど、この通りやってもうまくいかない」「ウチの子に、このやり方をすると、いやがられてダメだ」「ウチの子は、言うこと聞いてくれるけど、このやり方はストレスがたまっているようだ」などということがあるだろう。
 行き詰った時には、「こうすれば良い」という例に沿えば良いのではなく、目の前にいる子供の話を、目を見ながら聞くことが一番大事です。そうすることで、子供の心を考えることができる。そして「この接し方だけはダメだ」ということをできるだけ避けましょうね。