心理学を勉強しながら、例の一つとして、自分に対し、簡単に心理療法を行ってみることがある。いくつか試みたことがあるが、その時に、自分が「私はストレスに耐えるために、どんな行動に出ているかを知っており、どんな風に誰に話を聞いてもらえるかを知っている。」ということに気づいた。そして悩みや苦しみの内容によって、言う相手が違うこともあるが、いかに多くの人に支えられているかを知り、自分が恵まれているかを知った。
 子育てには、幸せや喜びも感じられるが、数で考えてみると実はその方が少ないかもしれない。不思議なもので、その一瞬のために親は頑張れちゃうのだ。自分の子供と接していると、苦しみや辛さ、自己嫌悪、罪悪感など多くの否定的な感情も伴う。
 多くの犯罪者がそういった否定的な感情を消化するのが下手だというのは、私が心理学を勉強しながら得た見解なのだが、母親が子供を殺してしまうような時、同じことが言えるのではないだろうか。
 子供を否定したくなることもある。そういった気持ちを吐き出す場がないと、そのストレスは弱者、身近にいれば直接その子供に向いてしまう。
 私の理想の話だが、子供の通う幼稚園、学校すべてにカウンセラーを置き、プラス特別な資格を持っていなくても保健室の先生のような、何でも話を聞いてくれる人の存在があればと思う。愚痴の聞き役ですね。カウンセラーとなると、身構える人もいるだろうから、そういう愚痴聞き役がいても良いと思う。そこで、専門家の判断が必要となれば、カウンセラーに回していくという手段を取れないものだろうか。
 私は、幼稚園の担任の先生方、幼稚園の事務の先生に愚痴を聞いてもらって、すごく助けられたことが何度もあります。子供が小学校入ると、そういう存在の人がいなくなることが不安です。子育てや自分の健康問題に行き詰った時、聞いてくれる人がいれば、衝動的、突発的に子供を殺してしまうような人はグッと減るのではないだろうか。
 なかなかそうはいかないのが現実なのだが、とりあえず、一人でも良いから、自分の気持ちを、思いの丈を、否定的な感情、怒り、悲しみ、罪悪感、醜い感情などをあまり強い警戒心なしにぶつけられる人がいればと思う。それによって子供にはそういう感情の半分は向けなくて済む。
 ちなみに、子供も同じですよ。
 親として、子供の否定的な感情、痛いと言ってるのに「痛くない、痛くない」と言ったり、「悲しい」と泣いているのに「泣かない、大したことない」と言ったり、お友達に対するやっかみや喧嘩があった時に「何てことを考えてるの」「我慢しなさい」「謝りなさい」と強要したりせず、その感情を持つことは自然だということを伝えたいものです。そうすることによって、自分で肯定的な感情も自然に認められるようになります。「親に認められるため」ではなく、肯定的な感情を自分で認められるのは素晴らしいことです。否定的な感情も表現する自由を子供から奪いませんように。
 それは、大人になってからも生きる。「否定的な感情を持つ自分もアリなんだ。人に言って少しラクになろう。」と思えるように。