『こころの科学 140 子どもの悩みをきく』(日本評論社)を読んで、確信を持ったことがある。
 これに寄稿している方々は、カウンセラー、心療内科、学校の先生、保健室の先生、大学の教授、少年院の先生など様々な立場の人がいる。それぞれの考えで、「子供の悩みについて」書いていて、その考えは、実体験に基づいたものであり、実感なのだろうということがうかがえる。症例の記述も多くあり、衝撃的なものから、日常生活の上で小学生、中学生、高校生が抱えそうな問題を書いたものなどたくさんある。
 改めて確信を持ったこととは、「自分の悩みを知り、それと一緒に生きていく」ということだった。申し合わせた訳ではないはずなのだが、ほとんどの人が書き、面白いように共通していた。
 外に対しての悩みではなく、自分の中にある悩みを自覚し、言語化することがまず第一歩である。それはただ話すということだけでなく、自分の人生に向き合うということが求められるとのことだ。
 そして、それをスッキリ解決するわけでもなく、その悩みと共に歩んでいくこと。一緒に上手につきあいながら悩んでいくことが自然であり、悩みと共に生きていくことこそ、人として健全に生きていく上で必要であるということだ。
 名古屋市小学校教員の岡崎勝という人の寄稿より。
 [「正しい」ことを声高に言うことは、大人が子供の「支配的な立場に」立ちたいという、一種のエゴの表れではないか? 悩む子供が欲しているのは、「正しい教科書」ではなく、「間違いを認めてくれる寛容さと、その修正方法」あえて言うなら「折り合いのつけ方」である。]
 大人も同じだろう。正しいことを言うのは、相手を傷つけるだけで終わることがある。傷ついた相手は落ち込むだけだったり、いやな気分がしたりで何ら解決にもならなければ、納得することもない。
 さらに抜粋しておきたい。
 [正しいというのはけっこうアブナイ。つまり、大人は「正しさ」によって「抑圧」しているということをあまり考えない。大人が言う「正しい」ということは絶対的なものではない。「正しい」ことを言い続けることが、子どもにとってそこから逃げられない抑圧になることも意識しておかなければならない。
 正しいことを声高に言うことが、大人が子どもの「支配的な立場」に立ちたいという、一種のエゴの表れではないのか?悩む子どもが欲しているのは「正しい教科書」ではなく、「間違いを認めてくれる寛容さと、その修正方法」あえて言うなら「折り合いのつけ方」である。]