さらに一つ、子供がどもってきたことによって、子供好きな人からしたらバカバカしいことかもしれないが、とても心がスッキリしたことがある。度々書いているが、子供ができるまで、私は子供が苦手であった。とくに騒ぐ子供。興奮して変な作り言葉を言ってみたり、ふざけて通行の邪魔になったり、他の人の前で大きな声を出したりする子供。泣き止まない子供。どうして親はそれを止めない、止められないのかと思っていた。
 しかし。例えば「泣き止まない」ことに関しては、自分の子があまりに泣いてばかりいるから、赤ちゃんや子供ってそういうもんだという風に思えるようになった。以前の私のように「うるさいな……。」という目を向けられたら、「母親の私が泣きやませられないのよ。じゃあアンタに泣き止ませられるかい!」と心の中で言うようになっていった。
 それと同じで、ちょっとくらい騒いでも、うるさくても、変な言葉言っても、それが子供というものなのである、と考えたらどうだろう。公共の場で、やたらに周囲の目を意識して、良い子であってほしいと願い自分が、何てせかせかした器の小さい人間なんだろうと思うようになった。
 つまり、過去の自分を否定したくない気持ちが常にあって、そういう‘うるさいタイプの人間’もいるのだから、そういう人たちにうとましく思われないような子供でいてもらおうとしていた。いや、意識的ではなかった。無意識に、子供に「‘以前の子供がいない頃の私’に嫌われない親子」を押し付けていたような気がする。
 他に、アパートの廊下で騒がしくしている子供がいることを、私は許せないでいた。何故なら、息子が寝ないタイプの子、眠りの浅いタイプの子だったので、昼寝をさせていても、そういった騒ぐ子供たちの声で、息子は目が覚めて泣いたり、なかなか昼寝してくれなかったりして、イライラしたからだ。なので、アパートの廊下でうるさくすることは、「過去の自分」が許せなかった。だから息子がうるさくするとイライラし怒り、自分たちが気をつけているものだから、他の子がうるさくすると腹が立った。
 しかしよく考えてみると、子供とはそういうものなのである。声に張りがあるし甲高い。声の調節など、なかなかできない。目に見える範囲内で人がいない、という所に自分がいる時のこと。何故静かにしなくてはいけないかなんて、わからない。その時は理解していても、すぐに忘れて楽しくなってしまう。悲しいことがあると泣く。いやなことがあると怒る。子供として当たり前のことだ。
 何故私はそれを許せなかったのだろう。
 これで随分私の気持ちは軽くなった。
 過去の自分を否定することはなかなかできないものだ。正当化したいという気持ちが先走る。自分が好きとか嫌いとかそういう問題ではない。でもその自分に嫌われないよう振舞うことは、自分を縛ることになる。
 子供に「きちんと」を強いていた自分に気づいた時、とても気が楽になった。