どもりが強く出る時というのは、人によって状況がそれぞれ違う。
 先に書いたように、息子は喋りたい気持ちと、それを表現する力のバランスが取れていないことにある。しかし、確かにストレスがあった。環境的にも、私たちがプレッシャーをかけ、息子の葛藤を助長していたところがある。
 せっかちな私は、息子の話している言葉をせかしているところがあったのかもしれない。
 どもりがちなものの、言葉をたくさん話す息子に、つい大人扱いしてしまい、まだまだ4歳である息子に対し、躾を厳しくしたり、口うるさくあれこれ言ってしまったかもしれない。もうこのくらいはわかるでしょう。このくらいはできるでしょう。ってね。
 他にわかったこともある。息子の言葉に対する、私の反応だ。生真面目に言葉通り受け止めることをやめ、できるだけ流すようにしてみたこともあった。しかし、これも時と場合による。息子は、‘こちらの気持ち、言われた人の気持ち’を知りたいのだ。笑いながら、ただフザけて悪い言葉を言っていることもあれば、ちょっとお互い気分が良くない時に、わざといやな気分にさせることを言って、こちらの出方を伺っていることもある。「そうじゃないでしょっ!!」と叫んで怒った時、息子は自分で考えて「○○と言ってごめんなさい。」と泣きながら謝ったことがあった。その時に、あっ息子は、言葉の持つ力を知りたいんだなとわかった。その言葉が、周りの人をどの程度動かすのか、それを流してばかりいると、人を傷つけることに無頓着になる。自分の発した言葉によって、相手はどういう気持ちになるのか、それは理解できるような人であってほしい。
 どもることによって、息子の発する言葉にも、私の反応が変わってきた。すべて流すのではない。わざと悪い言葉を使っていて、流して良い場面もあれば、流さないほうが良い場面もある。それは、こちらの気分的な余裕によるとしか言えないかもしれない。しかし、生真面目に反応することが一概に悪いとも言えない。息子は、こちらが本気になるのを待っていることもあるのだ。
 さらに、どもっている息子を悲しんだり、哀れんだりすることで、深刻さを増すのではなく、この息子ごと愛してしまおうという気持ちに達した。それでも日によって、息子のどもりの症状は強く出たり出なかったり。体力的に疲れても、息子はどもりがちである。喋りたいことと余っているエネルギーのバランスが取れないようだ。
 「きちんと話さなくてはいけない、話せるようになったら嬉しい。」……それは、きちんと話す息子を愛しているのであって、きちんと話せない息子のことは愛せないようではないか。
 どんな息子でも、夫と私の息子だ。こういう息子までをも受け止めよう。
 幼稚園の先生は、息子の良い面をたくさん話してくれた。どもっていても、先生に対して一生懸命話してくれること。その内容が、とても個性あふれていて楽しいこと。人にないものをもっているといった具体例。その内容一つ一つが、私の心に染みた。彼の感性が育っていることの方が大事だ。
 今回、このことがあって、私の心は、また大きく変化した。