幼稚園の担任の先生と話す機会がもてた。
 息子のどもりは、ストレスというより、自信のなさからというより、緊張というより、話したいことがたくさんあって、感情についていかない、といったことから来ているようだった。ただ、それを指摘したりしたために、一時的にひどくなっているようだ。―というのが、先生の見解であった。私もそれが本当のところだろうという気はしていたが、客観的に見る先生がそうおっしゃるのだから、と少し元気が沸いてきた。
 爪かみも、手持ち無沙汰から来ているクセで、鼻をほじったり、口の中を指で探索したりすることを抑えたことから来ているとも取れる。
 さほど深刻になることはない、というのが結論である。
 しかしそれより、先生に大事な話をたくさん聞かされた。息子の感性についてであった。
 私の親友からも「言葉は少し追いついていないかもしれないけど、ミツ君の感受性はしっかり育っていっているやん。」というような言葉をもらった。
 見えるもの、聞こえるものにとらわれすぎて、息子の本当の良さを見失うところであった。実際、息子はまだまだ一生懸命喋ってくれようとしている。その「気持ち」の方が大事である。
 さらに、担任の先生が、幼稚園に定期的に来る専門の講師に聞いたところ、「ゆっくり喋ってごらん、というのは、確かに相手に余計意識をさせてプレッシャーになるかもしれない。でも、何もそこで自分を責めることはない。そうやってその子供のことを気にかけ、心配しているのだ、という気持ちが伝わるわけで、大事にされていることが伝わるのだから。」という返事だったそうだ。必要以上に自分を責めるなと、その講師の伝えたいことはそういうことだったそうだ。この話を聞いて、本当に安心し、大袈裟ではなく涙が出るほどに感動した。
 どのインターネットのホームページにも、そういう応対は良くない、こういうことを言ってはいけない、そんなお母さんの態度に子供は傷ついている、と書いてあるだけで、じゃあそれまで言ってしまった私たちはどうすれば良いのだ、「前向きに」と言われたところで、息子を傷つけてしまったのは私たちではないかという罪の意識が消えない。お喋りな息子が苦しむ様子を、喋り始める度に目の当たりにすることで、私たちは傷口に塩をすりこまれるようなヒリヒリした心の痛みを感じていた。可哀相だ。何とかしてやりたい。
 しかし、幼稚園の先生は上に書いたようなことを話してくれた。これがどれだけ心の救いになったことだろう。「それは良くなかったね」と言われることは、反省することになっても、そこから何も進歩がない。自分で進歩するには、あまりに目の前が暗闇でどこへどうやって行けば良いのか、手探りの状態だ。
 先生に話して本当に良かった。まだ子供がいないという先生なのに、その母親の気持ちに沿った態度に、強く心を動かされた。