前回、子供の発達の矛盾について、『発達とは矛盾をのりこえること』(白石正久著 全障研出版部)から、書いていったが、これは親にも言えることなのだ。―と白石さんも言っているような気がする。
 子供にそうしてほしい、こうなってほしい、こうあってほしいと願う自分と、そうはならず、イライラしたり、悲観したりする親。
 でも、そんな自分を責めないでというメッセージも、彼の文から伝わってくる。そういう親の葛藤こそ、必要であると。
 「子供が障害をもっているという事実を受け入れていかなくてはならないとき、人それぞれではありますが、その事実を否定したい、その事実をなんとか自分の力で克服したいと思うことにちがいはないでしょう。このごろわたしは、わが子の障害を否定しようとする時間が、親と子にとって決してむだではないと思えるようになりました。」
 この文章にうなった。こんなにも親に沿った気持ちになれるものだろうか。
 子供を否定したいと、最初は思う親の気持ちを、一般的に人は責めるのではないだろうか。「親なんだから、受け入れなさい。」「しょうがないでしょ。」「こんな子を産んでしまったのはアナタよ。」「この子の面倒を頑張って見ていなくちゃ可哀相じゃないの。」って。周りは何故こういう子供ができたのかと色々詮索するかもしれない。原因を考え、あそこを改めたら、ここを変えたら、と提案してくる。これが当人たちにどれほど傷になるだろう。
 一番辛いのは、本人?親?私にはわからない。でも親も、相当な辛い気持ちを抱えるはずである。
 息子がどもっていた時、幼稚園の先生から電話がかかってきたことがある。「毎日、目の前で起こる子供のどもりを見ているお母さんはどんな気持ちだろうって思って。」と。早急な解決策があるわけでもなく、ただ私の気持ちを思いやっての電話だった。その時に、私の気持ちはものすごく温かくなった。緊張が緩み、この先生になら、子供のことを相談できると心から思った。自分の接し方、育ててきたことを振り返り、何て押し付けがましいやり方をしていたのだろう、と後悔や自責の念ばかりにとらわれていたのが、スッと落ち着いていくようだった。今までの私の接し方に何か問題があったのかもしれない。でも、私の子供を思う気持ちに変わりはなく、それを認めてくれる人もいるのだ。一生懸命日々生活し、子供と接する私のやり方をとやかく言わず、今の私、そして子供の気持ちを思いやってくれる人がいる。
 子供は、生まれ持った気質、性格が確かにある。しかし、それを助長したり、生かしたり、潰したり、埋もれさせたりするのは、親に代表される「環境」である。親がすべてではない。でも親は責められる。だから、子供に何かあった時に、親は子供を否定したくなる。ましてや、生まれつきだと、その姿、仕草から、自分の何が悪かったのだろうと自分を責め、その様子を受け入れたくないと思う。でもそれは、至極自然なことなのだ。
 そういった葛藤こそを、必要なことではないかと記す専門家は、とても温かく、勇気のある方だと思われる。