言葉について。人の発する言葉について。自分の発する言葉について。
 大学で、英米児童文学を専攻したら、先生が日本の児童文学や心理学にも精通していらして、子供の持つ気持ちと発する言葉、親子関係について考えさせられた。
 日本語講師養成講座を、二つ受けて、言葉の持つ意味、ニュアンスをそれぞれの先生に投げかけられ、教室の皆で考え込んだ。「何でみんな、こういうこと考えないの?日本語講師の勉強をしたいなら、いちいち引っかかろうよ。」と、度々先生に言われた。
 しかし考えてみれば、前から言葉のことを考えることは好きだったように思う。
 小学生の頃から作文が大好きで、日記を書くことも大好きだった。人の発する言葉がとても気になった。気にした。気にするなと言われる言葉自体までもが気になった。
 文を書く時。その一言が、その単語が、助詞が、形容詞が、どのように捉えられるかを考えながら書いている。しかし、それも受け止める人によって、違うように捉えられることもある。それが幸か不幸か、私の臆病な性格を強調するように、言葉を発することに対して慎重過ぎるようになってしまった。それでいて、考え考え言っている割には、何だか矛盾することを平気で言っていたり、さっき聞いたことをまた聞いてみたりしている。生真面目に考えている割に、いい加減なところが私の中でバランスを保っている。
 「人を傷つけるのは言葉である。それを修復するのもまた言葉である。」
 というような文を目にしたことがある。その文に心から共感した。同じ言葉でも、受け止め方、受け止める人によって思った以上に傷つくことがある。でも、そこで戦闘体勢になっても、何も進展しない。また相手を傷つけるだけだ。傷つけあう関係からは何も生まれない。言わなくて良い言葉もある。
 言葉は、力による暴力と同じくらい強い物にもなり得る。声色がつき、表情を伴い(それが無表情なら、それもまた表情の一つ)、仕草もつくと、言葉の力は何倍にもなる。
 発せられない言葉によるものも大きい。発した言葉の裏側にある気持ち。わかってくれるよね、という気持ちが裏にある時の、足らない言葉。うまく言えない時の、その人の気持ち。言葉につまった時の気持ち。そのつまった言葉にこそ含まれたその人の思い。どうしても、あとちょっとの勇気がなくて表に出ない言葉。言葉で伝えなくても、伝わる気持ちがある。違う言葉を喋る国の者と話しても、伝わる気持ちがある。気持ちが大事、その方がより良いという場合もたくさんある。
 発しない言葉は、どこへ行くのだろう。その言葉が、まったく無になることはない。何らかの形で残り、相手にわかりにくい、伝わりにくい、違う言葉として発せられる。
 でも、伝えなくてはいけない言葉もある。その気持ちをわかりあっていても、発した方が良い言葉がある。その言葉を発しないと、伝わりきらない気持ちがある。
 言ってほしい言葉がある。
 伝えたい気持ちがあるのなら、それは言葉にしよう。できるだけ率直に。その裏の気持ちを読み取ってもらおうという期待は、時に人を傷つける。わかりきったことでも、ちゃんと言葉として発しよう。本当にわかりあいたい相手なら。