夫に、お父さんとしての役割をわざわざ求めるということはないが、私が忙しくしていてどうしても相手ができない時や、煮詰まって一人になりたい時に、夫は息子の相手をしてくれる。丈夫じゃないせいで、私はよく寝込んでしまうが、そんな時も、最低限の家事を引き受けてくれる。「気が向けば」だが料理をしてくれることもあるし(いつ‘その気’になるかはわかりませんが)、息子が赤ちゃんの頃は、「昼間なら」に限るのだが、オムツも換えてくれた。体重が重くて、大変な今も抱っこや肩車を頑張ってしてくれる。
 私が考える父親像は、私では役不足だと思われることを補ってくれる人。私の父親がやってくれた数々のおフザケは、私がついつい先行してやってしまうので(これは父に本当に感謝しています)、それは良いとしよう。気難しく細かく、グズグズ言いやすい息子に、時々いい加減にしろと叱って(これが怖いんだけどね〜 笑)くれたり、私がイライラしている時にサッと間に入って息子の相手をしてくれたり、お風呂で話したりしているのを見聞きしていると、ああお父さんて、こうやって子供とコミュニケートするんだなあと思う。
 息子の話を上の空で聞いていることもあるけど、肝心なことはきっちり会話しているので、まあ良いか。
 ただ無意識に、良い父子関係を作っているのを見ると嬉しくなる。
先日(と言っても、これをエッセーに載せるのは随分先のことになると思うが)、夫と息子とで、ちょっとした冒険をしに行った。
 車で30分ほど走ったところにある大きな川を、夫はジョギングで、息子は自転車で、上流まで行ってみたいと息子が言うのだ。先にはダムがあるらしく、気をつけてと言って私は見送ることになった。私には自転車がないし、走ってついていくほどのスピードもなければ、ウオーキングでついていくほどの元気もなかった。ウオーキングする元気があったとしても、人通りがほとんどないので、一人きりになるのは寂しすぎる。周りは田んぼと茂みばかり。私にとっては乗り気になれない条件が揃っていた。
 なので、息子を夫にまかせて、私は別の場所でのんびりさせてもらうことに。
 二人は張り切って出発した。2時間後に待ち合わせだと言って。
 果たして2時間後。上着を脱いで下着のシャツ一枚になった息子が自転車をこいで戻ってきたのだった。そして「端っこまで行ったら、自転車で行けなかったの。石がいっぱいだったんだよ。」と興奮気味に報告してくれた。夫に、「写しておいてほしい」と頼んでおいた写真を何枚か見せてもらった。
 その中に、息子のちょっと成長した姿を見てとれた。約2時間、9割方自転車をこいで頑張った息子。すぐあきらめたり、飽きたり、弱音を吐く息子が、お父さんと二人きりで、一緒に頑張れたことは、きっと彼の心の中に残ることだろう。
 最後に、以前読んだ文を一つ。父親って家族の中で重要な存在だと思わされた内容だ。
 「世界でいちばん有能な先生によってよりも、分別のある平凡な父親によってこそ、子供はりっぱに教育される」(「エミール」岩波文庫) 朝日新聞2007年5月12日付  自由主義教育を解いたフランスの啓蒙思想家ルソーの言葉