しつこいようですが、誤解のないよう、念の為に「悪い」「良い」のおさらいを。
 前回書いたことを反芻すると、無責任に思われるでしょうが、本当にそれくらいでも良いのかもしれない。
 ただ、「本当に」無責任かどうかは別で。自分が楽しいと思うことする時、自分にとってラクなことをする時でも、一度は振り返って子供の気持ちの立場に立って、よく考え、話すことができていれば、それで良いのかなと思います。ただ話し合うだけでは足りない。子供の気持ちになってみる。子供の感情、心の動きを感じる。その上で自分が行動するのは構わないのではないだろうか。そして先にも書いたように、子供はつい、親の気持ちを考え、親が喜ぶ反応を示しがちということも頭に入れておこう。意外と子供は親に気遣っているものだ。意識的にも無意識的にも。そのためにも、夫や周りの意見を聞きながら判断することは大切である。
 『アダルトチルドレンという物語』(信田さよ子 文春文庫)で、こんな例を読んだ。
 母親の手作りの服を着て、おやつも手作り。周りには羨ましがられる。しかし、子供は自分の意志で、物を選ぶことができなかったため、大人になってからも、物を選ぶことができなかった。母親のことが思い浮かんでしまい、自分の選んだ物事に罪悪感がつきまとう。生きている実感が伴わないと苦しむ。
 又、食事の時にテレビをつけない方針の家庭があった。しかし、その食卓は凍りつくように冷たかった。会話もなく、黙々と食べていたのだ。それならいっそテレビを共通の話題に、何かを話せばずっと良かった。しかし頑なにテレビをつけないことだけにこだわって、会話がなかった。そんな表面的なことだけにとらわれた結果、子供は冷たく寂しい家庭であることを、しみじみと実感せずにはいられなかった。
 そういった例を読んでいると、はてさて、表面的な「手作り」だとか「テレビをつけない」だとかが、子育てにどんな意味があるというのだ。問題はその中身なのだ。
 手作りの物を心をこめて作ったら良い。でも、それが母親のよりどころになってはいけない。そろそろ手作りの物がいやだとか、お友達の物と同じ物が欲しいとかなった時、むやみに押し付けて良いものだろうか?そりゃ同じ物、同じこと、と固執することは、個性を失う。ただ、適度なバランスがあれば良いのではないだろうか。子供の意志の本当のところはどうなのか。どんな気持ちがそこにあるのだろうか。そこは尊重すべきなのだろうか。母親は迷いながら子供と接していれば良いのだ。
 『遊戯療法の世界』(東山紘久著 創元社)を読んで知ったことの一つに、子供の気持ちを考える時、子供にとっての‘快’‘不快’で、判断してみよう、ということが書いてあった。子供が、‘不快’とすることをあえてする必要はない、ということ。子供が‘快’とすることを喜んで引き受ければ良いということだ。それで子供が図に乗るということはない。……そうか。最初から「そんなの都合が良すぎる」「そんなのわがまますぎる」と親が制してしまう必要はないのか、と目から鱗が落ちるようだった。万が一、図に乗りすぎたら、親である自分が「それはやり過ぎ、行き過ぎだ」と判断し、毅然と止めれば良い。