……結局「良い」って何だろう。
 色々考えました。
 良い教育って、世間に言われている教育が子供にとって本当に良いのだろうか。子供にも合う、合わないだってあるはずだ。
 その子供一人一人にとって、「良いとされている教育」が合わない時、その子は悪い子なのだろうか?
 ここをよく考えてみて下さいね。
 良い物とは大人の判断する「良い」である。子供はそれをどんな気持ちで見ているんでしょうね。
 今の私にはまだ「こうだ!」と確信して邁進することができません。ただ、こういった本を読んでいて、「子供のために」色々することが、本当に「子供のため」なのかと改めて振り返るきっかけになった。すべての‘教育熱心な’母親に、その教育は、自分の、支配欲を含む、あらゆる欲のためではないのか、と考え直す必要があるということを強く思う。
 そして、それと同じ意味だが訴えたいことは、自分のための人生ですよ。ということ。子供は自分ではない。子供が生きていることで、自分の当時を振り返りながら、また自分の人生を歩み直すことになるのは辛いこともある。でも、子供の人生を自分は歩めません。歩もうとしたら、それは子供の首を絞め、子供の人生を台無しにする。子供のためを思うなら、自分の人生を歩まなければいけない。自分の人生を歩もうとするなら、自分の「パートナー」と向き合うことは避けられない。夫なら妻の、妻なら夫の、何らかの理由があって一人で育てているのなら、同性でも異性でも、親戚でも友達でも、しっかりとした信頼を持てるパートナーを持つことだ。それは自分が親の立場からの親子関係、そして子供の立場からの親子関係を改めて見つめ、考えることとつながる。なので、そのパートナーと、子供のことをとことん話し合える環境にいること。話し合いながら、お互いの距離をはかり、子育てを考えていけば良い。
 子供のためを本当に思っているのなら、子供のために「良いと思うことをしてやる」のではなく、子供のために、親の人生と子供の人生の間に、線を引いていなければならない。もし子供のために必死にしてやれることがあるのなら、本気になって子供の気持ちを知ろうとする。そして会話する。
 結局、今まで書いたことなのだが、それに尽きるのかもしれない。子供のために必死になるということ。それは、子供のために「良い物を与える」のではなく、ただ「良いと言われている環境を与えるだけ」でなく、「良い母親を演じる」のではなく、本気になって、本音で、心から子供と接するということ。必死になって、子供の気持ちを探ってやる。自分に素直になって、笑ったり怒ったり、遊んだりケンカしたり、謝ったり。正面から向き合いながら、自分は自分の人生も考える。パートナーとの関係も考える。それが「してやれること」なのかな。と思い始めています。