『よい「子」と よい「お母さん」』(講演集 橘由子講師 信田さよ子講師 ぼちぼちBOOKS)『アダルト・チルドレンという物語』(信田さよ子著 文春文庫)を読んで、の自分の気持ちの大きな変化について、続きます。
 子供に対し、無意識に色々強いていた自分に気づき始めた頃、これを手に取ったのは、私にとって幸運だった。
 自分が、周りを意識した上で子供をコントロールしようとていたことに気づいたのは、子供の問題行動が起きてからだった。
 幸い、我が息子は、言葉でも態度でも精一杯抵抗してくる。この子で良かったと思うのは、大喧嘩をした後、冷静になってからだ。「ああ、この子じゃなかったら、私は気づかずに圧力をかけ続けているのではないだろうか。」と度々思う。息子が2歳の反抗期の頃、どんな場所でも恥ずかしくなるくらいに抵抗してくるので、どうしたら良いのか途方に暮れたことがあった。心理学の本を手に取った理由の一つである。しかし、3歳が過ぎ、4歳になってから、息子の抵抗は再び激しくなってきた。言葉がついてくるので、2歳の頃の「すべてがいや」の反抗期と同じくらい始末が悪い。二人で言い合い、怒鳴りあいの大喧嘩。流そうと思っても、カチンと来る。私の気持ちがいちいち波立つので、少し流したところで、それがたまってくると大爆発なのだ。しかし、カチンとくる直前の息子の振る舞いは、明らかにストレスがたまっていることが原因であった。何故私はそれをゆったりと受け止められないのだろう。
 ゆったりと受け止められる時もある。受け止められない時。それはストレスを発散する場所が「公共の場」であることも度々だからだ。もちろん、ウチの中でも「いい加減にして!!」と大爆発することはある。でもこちらまで泣きたい気分になるのは、周りの目を意識している時。息子はそんな私の気持ちを、漠然と感じていたに違いない。周りに良い母親と見られたいのに、全然そうできない自分。「きちんと」しつけていたいのに、だらしがなく、大声を出したり泣いたりする息子。それをコントロールできない自分。何やら下らないことで怒らせ、泣かせ、優しくない情けない母親である自分。
 すべてが、自分にとって恥ずかしいことなのではないだろうか。
 そういう風に意識的に思ったことはなかったけれど。
 でもね。子供って恥ずかしいものじゃないか!大人の自分が隠したい部分を無邪気に出してしまい、自分がしっかり、きっちりしたい部分をだらしなくしているのが子供というものじゃないか。
 そう思うようになってから、随分気が楽になってきた。
 私はそもそも人間なのだ。「きっちり」「しっかり」「ちゃんと」しているけれど、人間であることは恥ずかしいことなんだ。なんて、根本的なことにまで納得してしまった。
 まさに「あきらめる」という言葉を使いたい瞬間である。
 自分に覚悟を決め、こんな人間であることを認め、それでも前に進んでいく。