『よい「子」と よい「お母さん」』(講演集 橘由子講師 信田さよ子講師 ぼちぼちBOOKS)『アダルト・チルドレンという物語』(信田さよ子著 文春文庫)を読んで、とても気持ちが軽くなった。子育てのことで、いかに自分が、良い母親であろうという無駄な努力(笑)をしていたかがわかったのだ。
 子供を良い子にしなくてはと思っていた自分。良いお母さんになろうとしていた自分。そして良いお母さんじゃない自分を責める自分。
 しかし、そこに罪があったのだ。子供に対しての大きな罪だ。
 こういった本を読んでいると、‘良い’ってナンだろうと考えずにはいられない。
 生真面目に、熱心に子供のことを考える「良い」母親が、「良い」子にしようと、「良い」教育を受けさせ、「良い」応対をしようとすること。でもできない自分を責め、精一杯抵抗してくる子供を責め、うまく誘導できない自分をまた責めた。そしてこれこそが子供にとっての「悪」であった。どうして子供のために一生懸命良いように考えることが駄目なの?じゃあどうすれば良いの?と。半ば責めるような気持ちで最初は読んでいた。
 頭では、心理学の色々なことを理解しわかったつもりでいた。だからこそ、今まで色々なことが、ここでも書けていたのだ。しかし本当のところはわかっていなかった。
 「子供によかれと思ってやる、ということは、子供にとって良いことだという母親の判断を子供に押し付けて、そのとおりに子供を仕立てようということです。これこそが子供によかれという母親の‘愛情という名を借りた支配’の典型なのです。しかし、母親はそれは愛情と思い、支配とは気づいていないのです。」
 この文に、私は膝を打った。そうか!周りの、同じ頃の子供を持つ母親を見ながら、「良い母親」に対して漠然とした違和感を抱く時、こんな疑問が何となく頭をよぎっていたのだ。しかも、自分もそうやって自分の首を絞めていたところがある。
 実は、最近書いて(この文自体も数ヵ月後に載せるものになるが)、数ヵ月後に載せようと思っている文の中に、子供の問題行動について自分の考えを述べたものがある。子供に、その問題行動が起きた頃、自分がいかに、子供に対し、「良い子」であることを押し付けていたかを自覚し始めていたのだ。さほど厳しくしていたつもりはないのだが、ささいなことの積み重ねだ。そろそろ自分も物心ついていた4歳の頃。4歳の佳澄ちゃんは、なかなか気を使う少女だった。周りへの意識が強く、どんな風に感じ、どんな風に気持ちが動いていたか、克明に思い出せる場面もある。今思えばしっかりした女の子だったのかもしれない。若干泣き虫であることが難点だったのかな(笑)? しかしだ。我慢強く、気を使っていた自分(周りから見てどうだったかは知りませんよ。結構わがままで、気分屋だと思われていても仕方ないような振る舞いも多かったと思います。)を思い返し、性格も違う自分の子供につい同じことを要求してしまっていたところがある。
 「もっと周りを気にしろ」「もっと我慢強くいろ」「もっと恥を感じろ」「きちんとしろ」。
 それによって、息子の場合はどう感じるか、まで考えていただろうか。
 本を読むまで、それほど押し付けていたつもりはなかった、というところがまた問題。