昨年、知っている人が立て続けに亡くなった。
 私の両祖父母は、長生きしている方だと思う。そのため、幸せなことに、私の幼い頃の喪失体験はあまりない。大好きだった隣のおじいさんがいなくなった時も、後から知らされたし、幼すぎてよく理解できなかった。あとは、小学生の時にひいおばあちゃんが亡くなったことくらいだろうか。
 その後、中学生の時に、小学生の同級生がバイク事故で亡くなったと聞いた。思春期の複雑な頃だったので、私の気持ちは過敏に揺れた。これが本当に近い友達なら、家族なら、どんな気持ちになり、どれほどの衝撃を受けるのだろう。働いていた頃には、阪神大震災で、友人たちが家を失い、家族を失い、近い場所で亡くなった人がいて震える思いだった。結婚してから、知り合いが自殺した。その子を含む何人かで食事をしたことがあるが、まったく兆候がつかめなかった。精神的に苦しんでいたことをまったく匂わせず、でも友人に会わない時には、相当苦しんだらしいことを後で知って、自分の鈍さに空しくなった。しかし、知ったところで、私に何ができたというのだろう。家族や親友たちの気持ちを思うと、自分の力の小ささと思い知るだけだった。
 そして母方の祖父が亡くなったのが結婚後。初めての自分に近い人の死。
 それからは、私も年を少しずつ経ているせいもあって、次々と。
 人が亡くなって、当事者たちの気持ちを思う。どんな思いを抱えて亡くなったのだろう。それを当人たちに聞くことができない。声が聞こえないのだものね。ただ、亡くなる前の様子を聞いて、苦しくなかったのだろうか、寂しくなかったのだろうか、悲しくなかっただろうか、周りを囲む顔を見た時にどう思ったのだろうか。何を思いながら横になっていたのだろうか。色々な思いがかけめぐる。
 高校生の頃の卒業文集に書いたことが、今でも私の心に残る。「人は何のために生きているの?きっと終わりの時に後悔がないように、生きてて良かったと思えるためにだよね。」若々しい、青春時代ならではのひたむきな追求に、私のとりあえずの出した答えはそれだった。そしてそれは、今になっても「そうなのかもなあ」と何度も思う。
 そして、人の魂について考える。私は宗教を特に信仰していないが、人の魂は、体がなくなっても、どこかに存在するのではないかと思う。そのどこかは「皆の心の中」である。
 思い出としてであったり、その人の顔や声の記憶であったり、その人と会った時の周りの空気や匂いであったり。そして、自分が何か苦しいことや困ったことがあった時に、運良くその人のことを思い出すと、その人と心の奥で会話できるような気がするのだ。それはおそらく「あの人ならこう返事するのではないか」という気持ちから来ているのだろうが、声や周りの雰囲気、空気を覚えている限りは、‘その人との会話’となる。不思議と、その人の声は、自分たちの声に即答してくれるのだ。亡き人への気持ちは、亡き人からの気持ちと会話できるのだ。そして苦しい気持ちから救ってくれることがある。
 人を失っても、その人の記憶がある限り、その人は私たちの中で生き続ける。そしてそれこそが、その人たちの生きていた意味となるのだろう。