人に優しくありたい、ということから、ある本のことを取り上げているが、もう一つ気になったのが、心の醜い部分やストレスを極力落とすべきだという考えを著者が持っていることだった。心理学をほそぼそと勉強している者にとって、それは流せないことである。
 もちろん、ストレスを減らし、抱え込みすぎない努力はするべきだ。しかし、そうであってもストレスというのは降って湧いてくる。
 人と話をする時、この人と親しくなりたいと思う時、多少は自分の醜い所も出さなくては相手の重苦しい部分も引き出せない。相手の重苦しい部分を引き出せるのは、カウンセラーか親しい人間だけだ。そこを抱え込まれて気づかないような相手にはなりたくないのだ。もちろん、人を無意識に傷つけることはある。友達や家族に注意されることもあるし、注意されなくても失言が思い当たるだけでもたくさんあったり、でもこちら側は簡単に忘れてしまうこともある。人って生きているだけで、誰かを傷つけるものですよね。それを極力減らしたいという気持ちは常にある。だけど、傷つけ合ったとしたら、そこをどう修復するかはとても大きな問題だ。戦闘体勢になって、良い結果は生まない。相手と続けていきたいならば、まずは、受け止めよう。どう受け止めるか。ただその人を理解しようという努力をしよう。理解できなければ「何故?」の方にエネルギーを注ごう。怒りの「何故」ではなく、その人を探るための「何故」。何らかの解答を得ていくことができる。
 愚痴や不満のない人はいない。適度な距離を保って接している相手、友人なら、事細かに何でも話す必要はないし、それは「誰にでも愚痴を言う人」になり、相手に不快感を与える。が、親しい相手には愚痴や不満を言うべきである。何故なら、「愚痴や不満のない人はいない」からだ。そんなものなどない人というのは、自分を偽って、鎧で自分を固めて生きている人だ。それは人間らしくないばかりか、相手の心を知ることもできないだろう。相手を知ることができなければ、自分も出すことができない。もしかしたら自分自身のことも本当はわかっていないのかもしれない。
 マイナスの感情を持つこと、表現することは、親しい間柄なら悪いことではない。親子間で、もしそれを表に出されたら、むしろ歓迎すべきことである。ある程度のつきあいが必要になる主婦同士ならなおさらのこと。言い過ぎは、ただの噂話に発展することがあるので気をつけなければならない。しかし、夫か妻、そして子供がいたら、又両親もいたら、そこからか、その周りから、何らかのストレスは発生する。その心の内を聞き合わないというのは、寂しく、心理学的な面から考えても表面的な間柄であり、無理があってむしろ疲労を感じてしまう。
 人に優しくありたい。カウンセラーという職業には向いていないと判断しつつある今、せめて親しい人の受け皿になりたいという気持ちが強い。心理学を勉強していると、ストレスを抱えるな、なんてとても言えない。考えないようにすることで歪が生じることはよく書いている。できるだけ吐き出してほしい。葛藤している心の内を話してほしい。そうやって自分の気持ちが整理され、新しい展開に発展していくことは多いのだ。私はその手助けをしたい。