人に優しくありたいと、強く思わせられた本は、とても自分に厳しく、人にも厳しい内容だった。
 その著者自身が、とても優れた方で、さらにあらゆる努力を惜しまず、頑張ってこられたことには頭が下がる。しかし、それを周りの人に同じようにしなさい、それが素晴らしい人間なのだと言われるとどうだろう。そう頑張りたい人は、言われなくても頑張るだろう。では頑張れない人は?
 ここで、また「甘えちゃって」と思う人もいるかもしれない。
 しかしあえてもう一度書きたい。「頑張れない人は?」
 読みながら思ったことの中に、まず経済問題があった。そう直接は書いていないが、人間として素晴らしいのは、ボランティアのために何かを購入したり、良い品質の物を見極めて購入したりができる人だということだ。しかしできない人は?それは甘えだろうか?
 主婦になって、できることとできないことがある。それは価値観の違いでもあるけれど、どうしてもそこにはお金をかけられないということもあるし、そこにお金をかけるなら、他が苦しくなることがある。格差社会の中、実際に普段の生活から苦しいという人もいる。現実に仲良くしている友達同士でも、経済環境は違う。ここはこうしようと自分が思っても、相手の経済状態が苦しい時に、それを押し付けられるだろうか?こっちの方が品質が良いよと言った所で、友人は品質が悪くても、品質の悪い方を選ぶことでその月精一杯のことだってあるのだ。もちろん逆の立場も然り。我が家は特別裕福な家庭ではない。特別貧しくもない。しかし、我が家より恐ろしく裕福な家庭の友達もいれば、生活するのが精一杯の友達もいる。どちらの方が優れているとか比べられない。どちらの方が心が綺麗なのか、どちらの方が頑張っているのか、どちらの方が幸せなのか、まったくもって比べられない問題だ。個人個人の人柄によるものだからだ。
 何度か書いたことがあるが、私の中学高校は、結構なお嬢様学校だった。学校は私にとって誇りでもあり、大好きな学校だった。しかし、それは「お嬢様学校だったから」ではない。友達や、そこでの教育理念が好きだったからに過ぎない。友達たちも、代々続く名門の家庭で育った子もいれば、いわゆる「成金」でお金持ちだった子もいる。我が家のように、何とかかんとか通っていた子もいるし、生活が苦しくて通うのが精一杯だった子もいる。しかし、当時は私にとってそこが基準ではなかった。その子の人柄が全てだったのだ。今思い返せば、ああ我が家はこういう経済環境だったのかな、友達はああだったのかなと気がつくこともあるが、経済状況だけでは、その子の人柄は判断できないものだった。
 社会に出ると、人を見る時に、経済状況は参考になるかもしれない。しかし知り合って気の合う人が、どんな経済状態の家庭にいようと、その人自身を見る目を自分は持っていると、自負している。
 その本で、個人個人がないがしろにされて、こういう考えをするべき、こういう生活をするべき、ということがとても気になった。