さらに、「甘える」ということと、その言葉について。
 実際に「甘える」という行動は、わかりやすい。例えば恋愛中のカップルはお互いに甘えあう。子供が親にベッタリする。そういうことだけではなく、大人になった家族同士、友達同士ではどうだろうか。ちょっとわがままを言ってみたり、感情を露わにすることも甘えになる。ある程度の甘えがないと、親しくなれないことも確かだ。精神的に依存することも甘えになる。悲しみを表現したり、できないことを寄りかかってやってもらったり、怒りを表現したり、感情が激しくなればなるほど、その気持ちを相手にゆだねているところがある。言い訳をする時も相手に甘えていると言えるだろう。自分の罪悪感をわかってほしいと思う気持ち。
 ここまではわかりやすい。皆さんもそういう態度に出た自分を「甘えちゃった」と思ったり、相手がそういう態度に出たら「アラ、甘えて……。」と受け止めたり、反対に不快に思ったり、その時の気持ちも様々であるにしろ、甘え、甘えられていることは感じるはずだ。
 ところが、自分が無意識に発する「甘え」がある。無意識なだけに、人を傷つけることもある。わかっているつもりでも、それはふとした時に顔をのぞかせる。
 以前テレビで観た街頭インタビューでのこと。ある問題で、それに関する意識を高めた方が良いという内容で、見ていても「そりゃそうした方が良いだろうなあ。」と思っていたことがあった。しかし、意見を聞かれた時に「○△だからね〜、私たちにはできない、できない。」と言って笑っていた人がいた。それを見て、夫が「この人たちこうやって世間に甘えてるんだ。気分が悪いな。」と言った。確かにそれを見ていて不快な気分になったのだが、そうか、この人たちは努力をすることすらせずに、最初から「できない」と投げ出して「できない私たちを許してね。」と甘えているのか、とわかった。
 しかし、これは私にもある点かもしれない。本気ではなく、本当はちゃんとするし、それに至るまでの努力や葛藤もあるのだが、謙遜のつもりで「しない」「できない」と言っていることが、言い訳や甘えに聞こえるのだ。これには身の引き締まる思いがした。同時に、難しいことでもあると思った。当人は、努力をする。しかしできないこともある。できない自分を悩むより、あきらめてしまった方が良い場合がある。悩みが深ければ深いほど、見切りのつけ方、つけるタイミングがある。あきらめることで、後ろに引き返すのではなく、あきらめた自分を受け止めてなおかつ前に進むということ。心理学的にもストレスを抱え「過ぎない」という有効な方法だ。生真面目で几帳面、神経質な人には、これはとても効果的である。それにあきらめつつ前進する人には覚悟と凄みがある。ところが、性格やその葛藤を知らない人にとっては最初から投げ出しているように聞こえなくもない。その見極めは?!……考えてみたが、結局その本人を知っているかどうか、しかないのかもしれない。公共の場のルールに関して、明らかにできることを「できない私たちのことわかってよ〜。」と、最初からそう言ってしまうのは、確かに無責任な甘えですね。