言葉の持つ力について考えてみた。
 私について言えば、元々よく喋る方だったのだが、色々な環境で、大人しくあまり喋らないタイプになっていった。それが夫と結婚したことで激変。いや、元に戻ったのかな。夫は私より言葉に意識的で「人のいさかいは、コミュニケート不足からきている」「どんなに重苦しいことても、言葉で伝えないと、相手にはわからない」ということを私に何度も言い聞かせてきた。うまく伝えられないなら、それに代わる表現方法を探しましょうと。
 最初の頃は、そう言われてやっと口を開いていたが、そのうち、「言われたからやっと話す」自分が、いつか相手にされなくなるのではないかと思い、一生懸命自分の言葉で、たどたどしくでも話すようになって、今や話さずにはおれなくなってしまった。
 『話すことが苦手な人のアサーション』(平木典子著 伊藤伸二著 金子書房)を読んで、話す時の言葉そのものだけでなく、実はその人のためらいや、言いにくそうにする態度、表情、どの言葉に詰まったか、そういうものまでが相手の気持ちに伝わるということがわかった。言葉を情報伝達の手段だけのために使うのではなく、その言葉を発する時の、様々な背景を汲み取ることは大切だ。
 言葉は、人を傷つけるけれど、修復できるのもまたその言葉だ。
 例えば「ごめん」と、率直に謝ることのできる人はどのくらいいるだろう。大人になって、自分自身も謝ることができなくなってきたように思う。他国では、‘謝った者負け’という風潮もあり、それはそれで理解もできるが、時と場合による。それに、日本の「謝る」という意味は、それとはまた少し違う気がする。「ごめん」と言うのは、自分の非を認めるとかそういう問題ではなく、単に相手の気持ちに沿えるなと思う時にも言って良い言葉ではないだろうか。日本語には「謝罪」という気持ちと同時に、「相手の気持ちを汲む」という意味も入っていると思われる。「いやな気持ちにさせたことを理解できるよ。」というような。ま、あくまでも私の個人的な考えなんですけどね。
 そんなわけで子供に理屈の通る不満を言われた時に「でも」と言い訳しそうになるのをこらえて、まずは子供の気持ちに沿ってみよう。そうすると、とりあえずは「ごめんね。」と言える。言われた立場にもなってみる。ごめんね、と言われると、すまないなという気持ちが伝わってくるので、大人になった私でも言われるとまんざらではない。まんざらではないどころか、謝ってくれると、気持ちがスッと落ち着くことが多々ある。
 当人にとっては、そうなってしまったことの理由は色々あるだろう。罪悪感など、悪かったなと思う気持ちがあると、ますます言い訳もしたくなる。しかし言い訳としての理由は、しばらくして機会を見つけて、自分たちの都合を話せば良い。
 今自分の心が何を欲しているか、よく聞いて、言葉で伝えてみよう。それがいさかいを起こすことになっても、大きくなりすぎる前に起こしてしまった方が良い。シンプルに自分の気持ちを伝えてみよう。意外と相手は受け止められるものなのだ。