子供が、自分の物心つき始めた頃の年齢に近づくにつれ、怒りについてよく考えるようになった。そこで『話すことが苦手な人のアサーション』(平木典子著 伊藤伸二著 金子書房)を薦められて読んだ。
 以前は「私自身が怒る」というものについて、とてもハードルを高くしていた。子供ができるまで、人前で怒ったところをほとんど見せたことがない。結婚するまでは、部屋でクッション殴るなり投げるなり、悔しさをトイレや部屋で泣くなりしてぶつけていた。結婚してからは、すべての怒りは悲しみへと形を変えて、涙と共に夫の前で発散されるようになった。夫にしたら苦痛なんじゃないかと思うが(ごめんね〜)、しかしそれは夫の生きる上での信念でもあるのだ(ありがとうね〜)。「コミュニケートが必要。ほとんどのいさかいの原因は、コミュニケーション不足から来ているものだ。相手や自分にとって嫌なことでも、重苦しいことでも、言葉に出して話さなければならない。話しにくいなら、手紙やメールでも良いから、何らかの手段で自分を表現しなければならない」などと、新婚当時に懇々と諭された。分かり合いたい相手なら、に限るけどね。見放したい相手ならそれまで。
 そして子供ができてから、泣くだけではおさまらなくなり、怒鳴るようになり、自分の怒りを抑えられない時を実感するようになった。感情的ではない怒りを表現するようになることもあるが、イライラから怒ることも増えた。
 私も怒ってしまうんだ……。と思うと同時に、それが子供にばかり向いてしまうことが気になって、私にとっては少し前の話になるのだが、その筋の人に相談してみた。すると、即答。
 「怒りは、人に向けたからって良いものじゃない。」
 「人の怒りは、向けた分、怒りとして返ってきてしまう。」
 「怒りを向けると、相手はその怒りに感情が動いてしまって、背景にある‘何故そういう気持ちになったのか’というところには注目がいかない。」
 「相手の怒りに反応してしまうものだから、気持ちが落ち着いてから、そういう気持ちになった過程など話した方がずっとお互いの気持ちが伝わる。」
 などなど、たくさんのことを教えてくれた。私の話を聞いても、いつも多くを語らない方なので、それだけのヒントを提供してくれたことは驚きだった。そしてそのどれもが頭に残った。
 また、「人として、悪口は本人の前で言うものではない。」という基本的なことも知った。人に第三者のことを話す時と、本人の目の前でいう時と、多少内容を変えて話すのは当たり前のことで、場をわきまえるというのは、「陰口を言う」という後ろめたさを感じることではない、これは常識、マナーとして必要な考え方である、ということだった。
 人が怒りを表現できることを羨ましいと思っていた。そして自分もそんな風になれたらと思っていた。しかし、必ずしも良い結果を生むわけではないということ。
 その方は、私の以前の対策「ぬいぐるみやクッションを殴ったり投げたりしていたこと」を良い方法だと思う、と教えてくれた。