奥田民生は、自分の音楽への能力にすごく自負のある人だというのが私の印象だ。‘耳’にものすごく自信を持っている。
 この音が良いとか、この楽器の音が聞こえるとか聞こえないとか、そういったことに細かくこだわりを持ち、奏でる音を聴いてほしい、演奏を聴いてほしい、作った楽曲を聴いてほしい、とそういった気持ちを強く感じることがある。もちろん音程や表現力にも安定感がある。彼の歌い方に下手な飾りなどない。
 しかし、悪いけど、その彼の感じるとりわけ「音」、かもし出す音に対して、反応できるか、気がつくか、そんなのは、奥田民生のこだわりや感覚であって、聴く人は自由でしょうよね。
 だって、聴きにきている人は、奥田民生の何を見に来ているのか、聴きに来ているのかわからないのだ。そりゃ外見や歌詞だけで来ている人がいるというのは、音にこだわりのある彼にとっては苛立つことだろう。今のこの音が良かったのがわかったかと彼は思うこともあるそうだが、それは彼のわがままなところだ。そしてもちろん、そここそが彼の音楽のこだわりであり、カッコ良い曲を作る基盤になっているのも確かだ。
 しかし、彼の音楽を意外とクラシックのプロが聴いていることもあるし、私の夫などは、音楽に関しては全くの素人だが、私より細かく音を聞き分けている。何もプロばかりの耳が良いわけではない。バックバンドによって、曲全体の印象が変わることについても、音楽を一生懸命やっていた私より敏感だ。奥田民生が思っているより、よく聴けている客は多くいるだろう。もちろんそうでない客も多いだろう。でも、そうでない客だって、奥田民生の世界を楽しみに来ている。井上陽水じゃないけど、「音楽に対するこだわりがあるんだろうけどさ、楽しんでくれたらそれで良いんじゃないの?」と、そう思います。人によって、音楽への気持ちなんて、それぞれなんだから。私だって、楽器の音で色々感じていることはある。それが奥田民生の感じているところとは全然違うかもしれないし、そんなのわからない。本人じゃないんだし、一緒に曲作ってるわけじゃないし。
 4歳の我が息子は奥田民生の曲が好きだが、曲によって、歌う部分が好きだったり、メロディー全体が気に入っていたり、楽器の音にものすごくこだわっていたりする。個人個人の感覚で構わないと、幼い子供の、純粋に音楽を聴いて楽しむ姿勢を見て、そう思うのだ。