時々起こりますね。家族内や友人間、教師と生徒との間での恐ろしい殺傷事件。
 先日の会津若松市の事件については、記憶に新しい人もいるだろう。
 様々な事件について、加害者となった人たちは、幼少期からの育てられ方、両親の接し方が、専門家によってカウンセリングされるなどして分析され、探せば心理学の研究している人たちの本にきちんと記してある。それはマスコミには出てこない内容のこともある。マスコミによる取材は、どうも結論を急ぎ、雑誌なども買ってもらうようにとわざわざショッキングに、大袈裟に取り扱われ、専門家による分析を取り上げるにしても断片的で、皆が飛びつきやすいように編集されている気がする。一概には言えないのだろうが、色々な角度から見られるよう、専門家の本を数冊読む方が、少しでも真実に近づける。
 真実というのは、事実だけというわけではないし、加害者の心の本当のところにせまったわけでもないだろう。しかし、ある程度の材料が整うと、当人たち、そして加害者の家族たちにも、どこか共通点が見出せる。
 その共通点は、分析する人の好みで偏りも出るだろうが、そこは読むこちら側の判断が迫られる。観察力鋭く、自分なりの結論を考えていかなければならない。
 さて、今回の事件は、素人がこういった文にするには、まだまだ情報が少なく、あーだこーだと自分の考えを述べるわけにはいかない。しかし、こうではないかという憶測をあらゆる面から考えてみると、結局一つの何かが原因で起きたわけではないという気がする。複雑にからみあい、様々な要素が組み合わさって起こってしまった事件だったのだろう。これが原因だった、というたった一つのことで、加害者の心がわかるわけでもなく、その一つに注目しさえすれば、今後の犯罪が防げるものではなく、事態の深刻さから言って、こうだったのだろう、と単純に言えるものではない。ただ、少年に対して、その中の何か一つでも必死の対応をしていれば、ここまでの事件には至らなかったかもしれない。
 今回の事件が起きた時、あまりのことに動悸がして、母に不安な気持ちを打ち明けた。日中も誰かと会っていないと落ち着かず、夜は、夫に何度もそのことについて話した。忍耐強くつきあってもらえたことにより、落ち着きを取り戻せた。それは自分が人の子供であること、人の親であること、育児や心理学について勉強していること、などを確認する作業だったと言える。
 親は子供を安心させ、守る存在であると同時に、子供に対して必死に向き合わなければいけない。中途半端な気持ちで臨んでいては、子供にすぐ見破られてしまう。或いは子供は強い不満と無力感を覚える。強い不満もそうだが、実は無力感もまた恐ろしい力を生むことがあるのだ。
 また、子供には両方の親がいようと、片方しかいなかろうと、母性と父性とがどんな形であれ必ず必要である。その役割は一人より、二人以上でした方が自分もラクだし、気持ちも安定しますよね。そして子供の性格を見据えながら、その子の性格を受け入れながら、相性の問題も考えながら、よく接し方を考えなければいけない。場当たり的な対応をしていては、後でツケが回ってくる。会話や接し方に意識的でなければならないということだ。