「井上陽水奥田民生」についてまだ続きます。
 以前、二人がテレビで、司会者たちと話していた時のこと。
 井上陽水が話しているのを見て、あー良いもんだなあ、と思った。二人を見ていると、この人がいて、奥田民生がいる。あなたがいて私がいる。私がいてあなたがいる。……いやあ、良い人と出会えて良かったねと、何だか息子を見るような感じで、これまたほのぼのしました。
 井上陽水いはく
 「聴いている人に意味わかるために音楽やっているわけじゃなくて、大事なことは聴いている人が面白いなあとか、何これわかんな〜いとか、素敵だなあとか、そういうことがあれば良いわけで、意味わかるだけのためなら話は簡単ですもんね。」
 なるほどねぇ、この人の信念はこれなのねぇ、と思い知らされた。カッコ良いなあ。そしてそれに共感しているわけなんだなあ、奥田民生という人は。これはこう言いたいから、こうわかってほしいからっていう歌詞は確かにいやだ。少なくともここ十年の私には拒否反応が出てしまう。
 奥田民生の歌詞は、メッセージ性も実はあるけれど、あまり出さない。受け止め方も自由だと本人も言っているし、間違った受け止め方をしたところで「♪そこのあなたは〜聞き違いのようだなあ〜」って言われるくらい(?)。
 インタビュアーや、マニアなんかは「あーだこーだ!」と難しい、しかし当人たちにとってはきっと簡単で当然であろう議論をしているけど、私はやっぱり、自由に、私なりに解釈するわ〜。頭が疲れちゃいますし。トホ。
 「マシマロ」という曲がありますね。あれは例えば「ダメな僕や、定食でも気にしない」のは「キミ(=彼女or奥さん)」だと解釈している。そんな彼女は器が大きいなあっていう歌詞だ。そう思って聴くと、ニヤニヤしてしまう。
 あと、ワタクシ結婚してるからか、夫婦の歌が多いって勝手に解釈してますよ〜。……良いじゃない。本当はそうじゃなくたって良いよ。聴く側の自由なんだから。人それぞれの解釈だから、聴いていて楽しめるんだよね。奥田民生の歌詞は、特にそんな懐の深さが見える。
 ま、そんなこと言いながら、「息子」とか「厳しいのである」の歌詞なんかもすごく好きなんだけど。でも「ギブミークッキー」の歌詞も、相当好きですよ。あっ好きな曲を挙げるとキリがないんで、この辺で。