『家族依存症』(新潮文庫 斉藤学)の話の続きである。
 前回、「母子カプセル」にはまってしまう子供の話を書いた。子供の精神を健全に育てるには、母親自身が幸せであると実感できるように、できるだけ毅然と前向きに生きていかなければいけないということだ。そうではない親の子供は、どうしても親を守る側についてしまい、怒りや悲しみなど、「負」の感情を閉じ込めてしまう。その怒りは積み重ねられると恨みになっていくそうだ。
 無意識のうちに恨みを感じてしまっている友人たちもいる。しかし彼女らは、要するに無意識なので、一様に「母親はこんな良いことをしてくれた」「親にもこんな優しい面があったのだから」と傷ついていることを認めようとしない。そして、よくよく聞いてみると、母親自身は幸せではないのだ。それは客観的に見て幸せかどうかという話ではない。母親から子供たちに「いかに幸せではないか」を知らされるという事実があるらしいのだ。
 父親や、母親の両親たちの愚痴を延々聞かされる。毎日がつまらないと愚痴を言われる。いかに自分が今不幸せかという話をされる。そこから何とかしようという前向きな意識、楽しく元気に生きていこうという意志は見られない。
 友人たちが、あえて幸せになろうとしない時、その母親のことに思いを馳せる。そして母親たちもまた、その親たちに恵まれていないのだろうと考える。
 少し話がそれるが、自分に長い間、子供ができなかった時、さんざん考えたことがある。
 どういうことかと言えば。―「子供はいつかできるわよ、大丈夫。」とよく言われたのだ。
 じゃあいつまでもできなかったら?私は「大丈夫」じゃないのだろうか。大丈夫ってなんだ。心配しなくても良いよ、子供は「必ずいつかできるから」幸せになる日はやってくるよってことだろうか。私にとって「子供は?」と聞かれることなんかどうってことなかった。それより、この「いつかできるから大丈夫」という言葉は、私の感情をいつだって逆撫でした。
 つまり、人の尺度で幸せを計られているということになるからだ。
 子供ができた今、確かに子供がいない時には知り得ない感情を知ることができているし、幸せだと思う瞬間も多い。しかし、幸せかどうかというのは、本人が決めることだ。子供ができなくても、自分が幸せだと思う生き方をしていれば問題ないのだ。つまり、私はこんな毎日で幸せ、と思っていれば良いということになる。結婚していようとしていまいと、子供がいようといまいと。
 離婚したり、大事な人と死別したり、寂しい思いをしていたり、そんな時に幸せな顔などしていられないだろう。でも、自分が誰かの親で、その子供を幸せにしたいと思うのなら、頑張りましょうよ。幸せ「いっぱい」でなくたって構わない。そんな顔を無理に見せるのが辛いことも多い。でも、幸せになるよう何とかしようと生きているのよ、という前向きな態度と行動を「子供にだけは」見せましょうね。自分は生き生きと生活しているのよ、人生結構楽しいこともあるのよ、と子供には示してやりましょうね。
 母子カプセルを作らないためにも。