『ちゃんと泣ける子に育てよう』(大河原美以著 河出書房新社)という本を読んだ。
 この作者は、「良い子に育てよう」という意識を強く持たない方が良い、ということを一番に言いたいようだ。また、大人の思う‘良い子’が、いかに子供にとってプレッシャーで、それを求めることがいかに危険であるかを警告している。
 幼児期、少年期に良い子で頑張っている子が、思春期以降、大きな問題を抱えることがある。何も幼児期に大変な子が、思春期にラクになるというわけではない。こうしたからこう育つという理屈はないが、きちんと親が子供に向き合うと、そこに人としての基盤ができ、その基盤がしっかりしていれば、大問題には発展しない。らしい。
 度々、私を含めた親同士、「大人にとっての良い子が‘良い子’なわけじゃないよね。」なんて言ってみたりするが、果たして皆の思う「大人にとっての良い子」ってどんな子だろう?……言うこと聞いてくれて、公の場で大人しく居てくれて、挨拶もできる子??親であると、つい色々な期待を持ってしまいますよね。ただ、これは子供がうまくできなかった場合でも、上のように「大人にとっての〜」という考えでこらえることができる。
 この本の中で考えさせられた記述は「親に優しくしてくれる子が優しいわけではない」という所。親は子供に対し、人に優しく思いやりのあるタイプであってほしい。なのに実際は、親である自分たちに優しく思いやりを持って接しろ、と要求してしまっているのだ。
 なるほど、と気が付いた。優しくしてほしい相手は親なのか?社会に対してなのか。
 風通し良く、会話できることが健全な親子関係を保つコツだ。しかし、嬉しいとか楽しいとかいった気持ちばかりを受け止め、共感しているだけでは、子供は自分の否定的な感情を認めることができないし、親に出せなくなっていく。親には綺麗事ばかり、優しい面だけを見せる子供になっていく。親と言い合うこともできなければ、悲しいとか怒りとか寂しいとか、そういった、親としては見るのが辛い面を、子供は隠すようになっていく。そして、そのはけ口は、外に向かう。感情が表出する瞬間というのは、安心した瞬間だ。つまり、安心できるのが外になってしまい、怒りや悲しみはそちらで表現されてしまう。親が「我が子は、ウチでこんなにたくましくて、優しくて。」と自慢に思って、疑うことのない親ほど、子供は外で問題を起こしてくるという。
 子供が否定的な感情を持ち、それを打ち明けてくれた時、それが怒りや悲しみであっても、自分に向けられたことを嬉しく思ってほしい。そうされたことに対して別に「優しい親」を演じる必要もない。ただその感情を受け止める、ということが大切なのだ。
 子供は、10歳くらいまで親の前では甘えたいものだと言う。しかし、感情の防衛本能として、辛い目、苦しい目に遭った時、人は、子供の頃から「感じないようにする」という手段を用いることがあると言う。大人もそういうことがありますよね。でも以前書いたように、「感じない」ということは一時しのぎにはなっても、本当の意味では癒されない。気持ちは押しのけられただけであって、悲しみは誤魔化されてはいるが、実は常に横にある状態になってしまうのだ。親に否定的な気持ちをも受け入れてもらえることで、子供は自信をつけていく。そして心が、芯が、優しく丈夫なっていくのだ。