前回の文を書いて間もなく、昔の奥田民生のインタビュー記事を読んで、ホレホレ、そうだよね、そういうもんだよね〜と一人うなずいた内容があった。
 それは、インタビューされ、自分が何か喋ることで、読む人がそれぞれの感じ方で「そうか、奥田民生はこういう人なんだ」と判断されることがいやだということだった。そうだよね〜自分が何となく言ったことが、文字になって、それをファンなり、他の音楽家なりが読んで「こんな発言してらー」と思うこと。それによって印象が良くなったり悪くなったりすること。どちらにしろ、それが自分にとっては本意でないことも多くて、そういうことが言いたいんじゃないのに、と思うことも多いだろう。
 伝わらん。もどかしい。苛立たしい。色々な感情を超えて奥田民生は、インタビューに対し、普通に喋っている。僕はインタビューが嫌いだと言いながら。
 音楽を問わず、有名になった人は様々なシーンで、人はインタビューを受ける。そのインタビューにどれだけその人の本意が表れるのだろう。
 いつも「面白いなあ。」と思って聞いたり、読んだりする中に、芸術作品に関して、例えば絵画や音楽、文学に関して、人は意味を求めたがる。何かとエピソードを付けたがる。真実もあるのかもしれないが、例えば本人たちが、心から溢れるものを作り上げた時、そこに何か意味はあるのだろうか?
 ミュージシャンにインタビューをする人は、この曲の意味は何だと問う。今回のアルバムはどういうコンセプトかと聞く。インタビュアーの考えで「こんな感じのアルバムになっていると思うが、それに関してはどう思うのか。」など。
 それってどうよ。
 そんなに意味があることかい?
 意味をつけたがるのは何故?
 それでも、ミュージシャンはそれに解答を出さないと、納得してもらえないのを知って、無理矢理何かを絞り出す。
 人は、そんなに一言一句、一挙一動に意味をつけてるわけではないでしょう。
 奥田民生の歌詞の作り方も、言葉の響きからだったり、言葉遊びがあったり。なのに、そんな中にロマンチックなものを求める女性ファンもいるわけよね。

 意味なんか考えないで、もっと心で音楽を楽しめたら良いではないか。