前回の続き、『心の痛みのセルフコントロール』(ジョン・プレストン著 大野裕監修 岩坂彰訳〜創元社〜)の中の文について、さらに考えていこう。
 印象的だったのは、情動恐怖症についての話。
 子供が転んで「痛い」と訴えてきたとしよう。
 その時にa)痛いね、でも擦り傷だ。すぐに痛くなくなると思うよ。きっと我慢できる。と言いますか?それともb)何でもないよ、泣かない泣かない。と言いますか?
 心理学的にはa)が子供の心には健全。
 最初の例では、ちょっとした痛みは消えていくもので、自分には痛みを感じる力と、それに耐える力があることにしだいに気づいていく。
 二番目の例では、子供の痛みは認められない。子供は自分の痛みを感じなくなっていくようにするか、少なくとも痛みを表さなくなっていく。「痛い」と安心して口にできない。
 そういったやり取りが継続的に行われると、二人の子供は将来違う人間になっていく。
 最初の例の子供もある程度は感情表現を抑制することを学ぶが、痛みはやはり感じるし、それが自然な感情だということも知っている。大人になって痛みを感じたときも、おそらくそれを認め、表現しやすいだろう。
 二番目の例の子供は、痛みや悲しみといった基本的情動がほかの感情(たとえば恥、親への怒りへの恐れ、見捨てられることへの恐怖)と結びついてしまい、こんな感情を持つ自分がおかしいに違いない、自分に間違ったところがある」と考える。大人になってから、感情をあらわにできない。それは痛みが恐ろしいからではなく、それに関連した自分の感情に恐怖を感じるからだ。悲しみや痛みの感情を表現することを避けるようになる。
 そういったことは、心理学の本の中にはよく登場してくる。感情に関して、子供本人も周りの大人も感情は変化していくものだということを教えてやるのが良いということ。だから親子間で、怒ることも泣くことも認め合おう、その上で自然に落ち着いていくことを教えておこうということ。
 全員が全員そうではないだろう。自分たちだって、そんな風に言われたにも関わらず自然に感情表現ができているよ、と思うかもしれない。だけど、忘れてはならないのは、子供は自分と違うということだ。感情の持ち方も。感じ方も。例え自分と似ている部分が多くても!そしてさらに注意しなくてはいけないのは「感情のメカニズム」という点では、人間は共通しているということ。この違いには注意を払わなくてはいけない。