テオヤンセンテンの入り口にて、一つ大きな作品があり、動かすことができるようなコーナーがあった。家族三人で近くで「ほほー」と観察していたが、列が少し空いたので、夫と息子が並んで動かした。
 でも色々な家族がいるもので、「動かしたい」と言っているのに何だかんだ言ってその場を離れようとする親。「なにあれ?」と聞いているのに「見るだけ見るだけ」と言いながら見せもしない親。ああなんてことをするのだ。子供の好奇心の芽をああやって軽く見て摘んでしまっている。何てもったいないことをするのだろう。子供がそこから「動かしてみた!面白い!」と思って、そちらの方の興味がグングン伸びるかもしれない。そちらの方じゃなくても、体験してみたという思い出が、今後違うことに関しても、「またやってみよう」という意欲につながるかもしれない。やっぱり面白くなかったとしても、興味を持ったことに親が反応したことで今後も「これ面白そう」という訴えを聞いてくれる、発言しようという心の強さを持つことになるかもしれない。そんなに難しく考えなくたって、私には子供の好奇心に付き合えない親の心理が理解できない。そんなに急がなくちゃいけないことがあるなら別だ。でも、そこは水族館が併設しているだけである。順番待ちとか関係ないし、真昼間。そこまで急ぐことなんてないではないか。あったのか? いや、そんなに急ぐなら水族館に来る必要ないではないか。水族館に魚や生き物を見に来たとして、ちょっと脱線することがそんなにダメなことなのか。親にとって訳のわからない物だとしても、子供が興味あるものに対して、説明できなくたって良いではないか。「どうなってるんだろうね」「面白そうだね」って立ち止まれないものか。親が説明できないところは、子供の好奇心で知ろうとするだけでも、子供の可能性は広がるってものだ。触らせるくらい付き合って、子供のワクワクした気持ちを味わわせたら良いではないか。どうして自分基準で、面白いかどうかを決めるのだろう。子供が興味を持っているのだ。私は、そんなことで憤ってしまう。子供の好奇心てすごい宝なのに。その子の個性そのものなのに。
 さんざん「親が説明できなくても」と書いたけど、私は説明できない。もし私が子供なら「触りたい〜」と思ったとしても言い出せないかもしれない。幼児期の頃はまだしも、少し大きくなってからは、親を待たせるのを申し訳なく思っちゃう方だった。又、兄がそばにいれば、色々嫌味を言われるのをいやがって言い出せないでいた。そして触れたとして、その先それを生かすようなことに思考が回らないというか、それに関してどうとか思わないだろうと思う。何故こんな風になるのかとか調べることも知ろうとすることもないだろうと思う。私はそんな子供だった。だけど、「やってみたい」と思う気持ちを大事にされたことは、そういう自分の気持ちや周りのそういう気持ちを受け止められるということである。そのことに対して、良いイメージを持てるということである。好奇心の芽は摘まれない。